希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

こんな時代だからこそ労働運動が必要である件

現在の労働組合の組織率は20%を割り込んでいる。大企業以外に勤める人たちの大半は労組に加入していない。

労働者の殆どは自分の身を守る術を持たないでいる。会社が押し付ける違法な労働条件や不当な取り扱いに対して声を上げることができない状況にある。

 

確かに既存の労組はその存在意義が疑われている。正社員の既得権ばかりを守ろうとしている。ちょっとばかりの賃上げを要求するだけでお茶を濁している。会社の御用組合と化している。

労働者にとっては加入するメリットは感じられないし、魅力もない。

 

けれども、労働組合を結成し加入する意義は大いにあると僕は思っている。ひとりひとりではできないことが労組ではできる。例えば団体交渉権があることによって会社と同じテーブルに就くことができる。会社には団体交渉応諾義務が課され、正当な理由なく団体交渉を拒否することができない。これは労働組合法で定められている「強い権利」である。また、団体交渉や争議行為については刑事上及び民事上免責されている。つまり正当な争議行為等において会社に損害を与えても賠償する義務を負わないのだ。これは有効な「抵抗」の手段であることを意味する。

しかし、現状はほとんどの労組(特に大企業の)は権利を行使せず、会社の意のままに操られる存在に成り下がっている。

 

今時労働運動なんて時代遅れ、時代錯誤という意見もある。もはや労組は存在意義を失ったという声もある。

果たしてそうだろうか。

イデオロギーや党派に拘ったかつての運動ではもうだめだ。賃上げさえ要求していれば事足りるといった態度ではもっとだめだ。

相も変わらない長時間労働、パワハラ、セクハラ、誤った成果主義、行き過ぎた効率至上主義など労働環境は劣化している。

極言すれば労働者の「生存」が脅かされている状況なのである。普通に働いて、普通に生活を営むことがしづらい世の中になっている。

労働者の生存のために、まともな生活を送ることができるように絶え間なく戦い続ける労組が必要とされているのである。

 

労働者の生活を守るためには労働者自らの手で権利や要求を勝ち取らなければならない。

国家による規制や保護を待っているだけでは何の解決にもならない。お上や経営者の恩恵にすがるようなメンタリティを持ち続ける限り、労働者への締め付けは絶対になくならない。

 

僕は介護・福祉の仕事に従事していて、いかに労働者がスポイルされているかを目の当たりにしてきた。違法・不当な労働条件を押し付けられても声を上げない。たとえ、個人が声を上げても他の労働者がその人を助けたり守ったりすることをせずに、逆にその声を潰しにかかる愚行を繰り返す。でも、他の労働者を一概には責められない。彼ら彼女らは単に無知であり、また自分の身を守ることで精一杯なのだから。自分だけは会社に良く思われたいというメンタリティが、その愚行に走らせているのである。

要は労働者の受け皿がないがゆえに、経営者に都合の良い(労働者が不利益を被る)労働環境が改められないままに放置され続ける。

 

今のこんな世の中だからこそ、地に足の着いた労働運動が絶対に必要である。「大きな」政治的要求を掲げるのではなく、自分たちの職場環境を少しずつでも良いものにする地道な活動を行わなければならない。経営者の暴走を食い止める防波堤の役割を果たさなければならない。

このままでは、労働者は「生かさぬよう殺さぬよう」ではなく、「使い倒して後は捨てる」という悲惨な状況になりかねない(一部の会社では現にそうなっている)。

 

事は単純に考えれば良い。

要は労働者が舐められないようにすればよいのである。経営者が好き勝手なことをすれば、断固として抵抗するぞ、とのポーズを示せば良いのだ。

そのためにも、実力のある、そして健全な労働運動を活性化することが大切になってくる。

 

と、ここまで威勢の良いことを書いてきたが、根本的な問題として、多くのサラリーマン、ビジネスマンが自分が「労働者」であることを意識していないことから改めなければならないかな、と僕は思っている。

会社の利益を出すことばかりに考えを及ぼし(もちろんこのことも大切だけども)、そのスキルを上げることだけが「意識が高い」と思い込んでいる人たちが、「労働者意識」に目覚めることが重要なポイントである。

どんなに会社に利益を運んでも、労働者は所詮は搾取されるだけのものだと、醒めた目を持つことが、労働運動を成り立たせる重要な要素となる。