世の中には自分が優れた人間だと思い込んでいる人間がゴマンといる。
官僚、大企業の正社員、政治家、医師や弁護士などの専門職に就いている人、芸能人、などなどである。
確かにごく一部に才能に溢れた人がいるが、ほとんどの人たちは有象無象である。
難関といわれる大学を卒業して一流と呼ばれる会社や役所に就職しただけで自分は勝ち組だと錯覚している人もいるだろう。例えば官僚なんて税金に寄生しているだけの存在なのに、国家を担っていると勘違いして傲慢な思考様式を有している。
官僚にしても大企業の社員にしても弁護士にしても自分は「大した人間」だと内心では思っているのである。
人は僅かな差を見つけて、自分の立ち位置を確定し、時には劣っていると見る人たちを差別する。人を差別することによって自分の優越感を満足させ、アイデンティティとするのである。
しかしながら、その優越しているものも広い視野、例えば宇宙規模で俯瞰すれば「誤差の範囲」でしかない。他者より優れているあるいは劣っているなんてことは大した問題ではないのだ。
人は皆平等なんてチンケなことは言わない。世間では不平等が当たり前なのである。不条理がそこかしこに満載されているのが世の中なのである。
人はこの世に生まれてきて、数十年間娑婆で生きて、必ず死ぬ。命はひとつで人生も1回きり、この意味において人は皆平等なのである。
自分は大した人間であると錯覚している人たちと付き合うのはとても苦痛である。彼らは傲慢であり、浅い人生観しか持ち得ない。他者を見下すことでしか自分の存在意義を確かめることができない。世の中にはこの手の輩が跳梁跋扈している。
しかも、不幸なことにこの手の輩が社会の支配層を形成し、上層部を形成している。
かくいう僕も偉そうなことは言えない。
かつては自分が大した人間だと勘違いし、上述の人たちのように他者を見下していた。社会に馴染めない人たち、うまく生きていけない人たちを社会のゴミとみなしていたのだ。新自由主義的イデオロギーを信奉し、競争社会を是とし、能力の低い者は淘汰されるべきだと考えていたのだ。
何と底の浅い、愚かな価値観・人間観を有していたのかと、今となっては恥ずかしい限りである。
今の僕は自分が大したことのない人間だと自覚している。また、それで結構だと開き直っている。
大した人間ではなくても、やれることは山ほどある。
人生を楽しむことができる。
誇りと矜持を持っている。
自分が大したことはない人間だと自覚することによって、今まで見えなかったものが見えてくる。
例えば、この世の成り立ち方だとか。
例えば、「世間」というもののバカらしさだとか。
そして、人生とは大いなる暇つぶしにすぎないものだとか。