ブラック企業問題に関する言説で国は積極的に関与して問題企業を規制せよというものがある。
既存の労働基準法やその他の労働法に加えて「ブラック企業規制法」的な法律が必要だという論もある。
これらの言説は一見正しいようにみえる。働く人たちを酷使し権利侵害が甚だしい会社にはそれ相応の規制を加えて罰を与えるべきだという論には頷ける。
ただ本質論的にみてみるとブラック企業に関する言説の多くには、企業活動の「自由」や資本主義社会の根源的なものを顧みないヒステリックとでもいうべきものが散見される。
ブラック企業だからといって国家権力による規制や排除を加えるのは、私的自治の原則に反するのではないだろうか。
ブラック企業といえども「国家権力からの自由」が認められるべきである。
一旦ブラック企業と認定されたら、国家権力は自由に介入・規制できるという事態を招いてはならない。
そもそもブラック企業の定義自体が曖昧なものである。国家権力によってブラック企業を恣意的に決めることがあってはならない。
例えばある業界で既存の企業が新興企業を潰すために政権与党に働きかけて新興企業をブラック認定してもらい、国家権力によって排除することもありうる。あるいはエスタブリッシュメントにとって目障りな会社をブラック企業と認定して排斥することも考えられる。
しかし、現実問題として酷い会社も多く存在する。これらのブラックな会社に対する制裁は消費者の不買運動や取引先による取引停止や社員の異議申立・社員の反乱等によってなされるべきである。同時に民法・商法等の規定により違法性のある部分について法規制を加える。まずは「市場のルール」によってブラック企業を淘汰し、私法関係によってそれを補うのである。ブラック企業は資本主義体制下での鬼っ子的存在であるから、市場のルールを適用することが求められる。
新たな包括的規制を加える国家権力の介入は避けなければならない。
働く者の立場から考えてみる。
ブラック企業は明らかに労働者の当然有する権利を侵しているし、労働者の生存権を脅かしている。
だからといって労働者の救済に国家権力の介入を招きそれを正当化するのは誤っている。
労働者の「権利」はまず労働者自身であるいは労働組合・コミュニティユニオン等の手によって守るのが筋である。国家権力の庇護によって維持される権利は本当の意味での「権利」ではない。
ブラック企業を糾弾する立場の人たちがよく言うことに、ブラック企業を辞めるに辞められない人たちがいる、その会社を辞めれば次の職場が無い、我慢を強いられているなどなどがある。
劣悪な労働環境を変える行動を起こす、会社を辞める、ユニオンに加盟したり結成してストライキをするという自力救済の手段を企てることなく、国家にすがるというメンタリティはおかしい。
ブラック企業の従業員が「被害者」だという面を強調しすぎてはならない。
自分の身は自分で守るという気概を失ってはならないのである。
ブラック企業の問題に限らず、昨今は何らかの問題が起こるとすぐに国家権力に頼ろうとする風潮がある。
国家権力からの自由は、何物にも変え難い僕たちが有する大切な「自由権」である。
ブラック企業を私的自治や市場のルールや労働者の自力救済の力で淘汰できない社会に未来は無い。