世間では頑張ることが当たり前、頑張ってこそ一人前という同調圧力がある。
これは精神主義と親和性がある。
頑張らない生き方を認める寛容さがこの社会にあれば、救われる人たちが多く存在する。
初出 2014/12/16
僕たちは誰かを励ますときに「頑張ってください」とついつい口にしてしまう。
励ます相手が心身ともに安定しているときにはこの励ましの言葉が有効である場合もある。
「頑張って」と励まされて心が奮い立つこともあるだろう。
しかし、心身の状態が不安定なときや頑張ることに疲れているときには、励ましの頑張れという言葉が重荷になることがある。巷間ではうつ状態の人に「頑張れ」は禁句だと言われている。
「頑張って」という言葉は相手を奮い立たせることもあれば追い込むことにもなるという実は厄介なものなのである。
頑張ることは良いことだ。
自分の夢や目標に向かって精力を注ぎ込む行為は賞賛されてしかるべきである。
人は人生の場面において頑張るべきときが必ずある。学業においても仕事においてもあるいはプライヴェートや趣味の領域においても。
自分の頑張りが報われて成果が上がったときの喜びは何事にも変え難いものである。大げさな表現を用いれば、人生は何と素晴らしいものだと感じる。人生を肯定的に捉えることができる。
しかしながら、人の頑張りには限界がある。
幾ら努力してもそれが報われないこともよくあることだ。その方が多いだろう。
時と場合によっては頑張る気力さえ失うことがある。これは誰にでも起こり得ることだ。
僕はひねくれ者なので「頑張っている」姿を他者に見せることが大嫌いだった。
そもそも頑張ること自体が好きではなかった。
さらっと課題をクリアすることがカッコいいという美意識を持っていたのだ。
とは言え、特に仕事をする際にはやはり頑張らなければならない場面に出くわす。僕はそれなりに上昇志向があったので、無理に頑張り続けていた時期がある。社会的地位や信用、経済的な成功をこの手に掴もうとして。
無残にも僕の野望は砕け散った。
僕は無理な頑張りは一切止めようと思った。
僕は今は最低限に頑張るが、必要以上に頑張ることはしていない。この態度は他者から見ると、向上心がないだの怠け者だと見られるかもしれないが、僕は我関せずと開き直っている。
高望みをしない代わりに、いかに今を楽しく生きていくかということに心を注いでいる。世間のしがらみの中を縫うようにして世の中を渡っていこうと心に決めている。
自分の限界を知ることは辛いことだ。
自分がこの世の中で果たす役割が実は大したものではないと知ることは、己の存在価値を疑うことにもなる。
ただ、それらの効用として必要以上の頑張りをする必要がなくなる。
等身大の自分であり続けることが出来るのだ。
僕は頑張ることを止めにして、生き辛さが軽減され、生きることが楽になった。
僕は今の生き方を貫いていこうと思っている。
自分は何事かを為す、という願望は捨て切れないけれど。