この国ではちょっといい大学を出て、官公庁や大企業に入った人たちを「エリート」と呼ぶ。
エリートの大安売り状態である。
大企業や官庁の幹部候補といえども単なる労働者に過ぎないことを忘れている。
有名大学出身者は学歴エリートであり、一般にこれらに該当する人たちを世間では「エリート」と呼んでいる。
この学歴エリートが真のエリートとはいえない。
いわば「エリート予備軍」である。
戦後高等教育を受ける人たちが多くなり、大学の大衆化現象が顕れた。戦前のように大学卒業者が「選ばれた人」であることはなくなった。
しかしながら、一部の難関とみなされる大学の卒業者で官公庁や大企業の幹部候補として採用された者は相変わらずエリート視されている。
彼ら彼女らは真のエリートではない。
私利私欲、私益の追求のため働く者たちはエリートではない。
選ばれし人たちは公共の利益のために自分の私欲を押し殺して、自分に与えられた役割を果たすべきものである。
このような人たちがこの国にどれほどいるのだろうか。
政治家や官僚は果たして公益のためにのみ働いているだろうか。
大企業の幹部は企業が社会的存在であると認識しているだろうか。
残念ながら答えはノーだと言わざるを得ない。
官僚や政治家、大企業の幹部・経営者の多くは学歴エリートの殻を抜け出さないままである。
そもそも、エリートはエスタブリッシュメントの既得権益を擁護する尖兵としての性質を有する。特にこの国ではこの傾向が強いように思う。
カストロやチェ・ゲバラ、ポル・ポトのようにその国でエリート階層に属しながら革命家になった例は古今東西で多く見られる。
僕は現体制を転覆させるような革命は望んでいない。しかし、創造的破壊を伴う体制変革は否定していない。庶民にとって生きやすい社会に変える運動は起こって欲しいと思っている。
社会をより良い方向に変える運動をエリートが担うのか草莽の人々が担うのかは分からない。
アウトロー的なエリートが生まれても良いのではと考えたりもする。論理矛盾ではあるけれども。
今のこの国には真のエリートはいない。
ある意味においては悲観することではない。
在野の心ある者たちがこの世に出て、変革をもたらす原動力になる余地が残されているからだ。
エスタブリッシュメントの飼い犬になって既得権益を守ることのみに執心する自称エリートたちなどいなくなっても一向に構わない。
一般論としては僕は真のエリートの存在意義を認めている。私利私欲を捨て、公益のために働くエリートはこの世には必要だ。
一方で草莽の人たちが次から次と現れるようなダイナミックな社会も捨て難い。
やはり、僕はエリートが支配・統制する社会は性に合わない。ダイナミックな社会の方が面白い。
真のエリートなんていてもいなくてもよい、という結論に落ち着いてしまう。