希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

自分の仕事ぶりを誰かが見ていてくれる、というのは滅多にない件

仕事に真面目に取り組んでいて、実績を上げていても評価されないことは多い。人事評価システムが不備な場合もあるし、ただ単に上司の目が節穴という場合もある。

こういったときに「きっと誰かが見ていてくれて評価してくれる」という類の慰めの言葉をかけられることがある。

この言葉を信じて仕事に取り組んでいると、稀に評価をされて良い処遇を受けることはある。しかし、大抵は適正な評価をされないまま意に沿わない処遇を甘んじて受けるケースの方が多いように思う。

完璧な人事評価システムなどあり得ないし、公正で適切な評価をなすことを上司に求めるのも酷な話である。

それに人は自分に対しては甘く、過大評価をしがちなものだ。自分はこれだけのことをしている、と思っていても他者からはそうでもないと思われていることは多々ある。

 

僕はこの「誰かか見ていてくれている」ということに過剰な期待はしない方が良いと思っている。

人間の本質をどう捉えるかによって変わってくるが、僕は人は他者の良い所をあえては見ないものと考えている。恋愛ならともかく、こと仕事に関してはその傾向が強いと思う。アラ探しや些細なミスを取り上げることの方に、より大きな労力を費やしているような気がしてならない。

多くの会社や組織で減点法の人事評価システムを採用していることもあるし、何より日本社会全体として失敗に不寛容でかつ頑張ることは当たり前という風潮がある。

また、良い噂は広まらないが、悪い噂は即座に広がるという事実もある。

誰かを褒める話は盛り上がらないが、悪口は大概盛り上がる。

 

人の頑張りや成果を素直に賞賛するという土壌がわが国には殆どないといえる。他の国々の事情はよく分からないが、悪口で盛り上がることはあれ、成果を上げた者に対しては賞賛するのではないだろうか。

 

それと日本人は過度に他者からの評価を気にする傾向がある。価値観なり人生観を自分自身で確立することよりも、他者からどう見られ、どう評価されるかに価値基準を置くケースが多い。

「誰かが見ていてくれている」という考え方は、この価値基準と強い相関関係があるように思う。

 

つまるところ、他者は自分のことをあまり見ていないし、気にもかけていない、と開き直ることも時には大切なことである。

他人の評価ばかりを気にしていては、身動きがとれなくなる。

 

誰も自分のことなんか見ていない、とプラスに考えると案外と自由にのびのびと生きていけると思う。