希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「努力」がそれほど尊いのかという件

努力することは素晴らしい、努力しない奴はダメな人間だ、という努力至上主義が蔓延っている。

 

努力至上主義は精神論と深く結びつく。

学業やスポーツ、仕事の場においても努力することを強く求められる。

ある目標を達成するためにはプロセスを踏むことは当然に必要である。

このプロセスを「努力」と言ってしまうことに僕は違和感を覚える。努力という言葉には不合理な要素が多分に含まれていると感じられるからだ。

自分にとって嫌なこと、不向きなことも努力によって好きになり、あるいはいつか好きになると強いられるのは納得がいかない。

 

会社勤めの人たちにはジョブローテーションがある(中小零細企業なら一つの職務を続けるかもしれないが)。意に反した、あるいは適性を無視した異動の可能性がある。遠隔地への転勤や単身赴任の可能性もある。

この際に会社に対して異動の拒否をしても殆どは聞き入れてもらえない。下手をすれば業務命令違反で解雇されるおそれもある。

正社員はこの仕打ちに耐えなければならない。

自分に向かない職務であっても、努力して遂行しろと言われる。

土地勘のない風習の異なる土地に馴染むように我慢して努力しろと言われる。

単身赴任においては本人や家族に我慢を強いる。

サラリーマンにとっての努力は我慢と同義語なのかもしれない。

バブル期以前なら、この努力(我慢)は昇進や給料アップなどで報いられることもあった。

しかし、現在はこの努力や我慢が報われることなく終わることも多い。

 

サラリーマンのケースのみに話の重点を置きすぎた。

社会一般においての努力至上主義の問題点を述べていこう。

 

実も蓋もない言い方になるが、仕事でもスポーツでも、その人の天賦の才能、ツキや運、時代状況によって成果や結果が出ることが多いのである。

 

努力すれば必ず良い結果が得られるということはない。努力しても結果が出ないこともあるし(この方が多い)、努力なしに成果を得られることもある。

これが現実である。

だからといって、僕は努力は無用と言いたいのではない。ある一定のプロセスを経ないと目標に達成する可能性は限りなく低くなる。この意味での努力は有用である、と言いたいのだ。

何でもかんでも「努力」したか否かに原因を求める風潮がおかしい、努力を強調しすぎる風潮はいかがなものかと思っているだけだ。

 

「努力して頑張った人が報われる社会に」というスローガンがあるが、これも一見正しいようではあるが、危険なものである。

人は大なり小なり努力している。

しかしながら、多くの人たちは報われていないのが実情である。これらの報われない人たちは努力しなかった、頑張らなかったとされてしまう虞がある。そして、自助努力の欠如や自己責任論に収束される傾向にある。

また、努力や頑張りができない状況にある人たちを排除することにつながる可能性もある。

 

個人に努力や頑張りばかりを強いる社会は息苦しい。

努力しない、あるいは努力の結果が出ない人たちはダメだという社会は生きづらい。

 

僕たちは頑張りも努力もほどほどに、肩の力を抜いて生きていくことで対抗するほかない。

努力や頑張りを強いる者たちが、実は最もそれらを怠っているのだから。