近年議論されている教育改革について気になることがある。
それは成績が良い学生をいかにして伸ばすかの議論が中心で、いわゆる普通の学生や成績が芳しくない学生に対してのフォロー体制についての議論がなおざりにされがちなことだ。
特に財界は早期のエリート教育の必要性を説き、実際に中高一貫の実験校も設立している。
以前のエントリでも触れたが、人間を選別する思想は危険だと思う。絶対的に秀でた人間なんていないし、逆に絶対的に劣った人間などいない。
ただし様々な分野で指導的な役割を果たす人たちは必要である。俗にいう「エリート」の存在は否定できるものではない。
僕は「エリート」とは、社会の各分野において指導的立場を任されるという「役割」を担った人たちに過ぎないと思っている。エリートと目される人たちが人間として絶対的に優れているわけではない。
エリートは一般的に重責を担うので、それに応じた報酬や社会的地位を与えられ、結果的に人々から敬意をもって迎えられるようになるだけだ。
しかしながら、現実問題としてエリートとなる人たちには必要とされる資質があり、ある程度の選別は仕方がないところである。
僕が考えるエリートの資質は以下のようになる。
・グランドデザインを描く能力がある
・使命感を持ち、責任を負う覚悟がある
・私益よりも公益を優先し、私利私欲に走らない
・実行力がある
・専門知識だけでなく、幅広く教養を身に付けている
かなりハードルが高いようにみえるが、このくらいの条件を満たさなければ真のエリートとはいえない。東大を出た程度でエリート面されては困る。
エリートを養成することが本当に必要なのか。
必要だとしても、それが既存の社会システムの中で可能なのか、が問題である。
分かりやすい例がフランスのグラン・ゼコールであろう。歴代の大統領や政治家、大企業の経営者、幹部クラスの官僚の多くはグラン・ゼコールの出身者で占められている。
日本版グラン・ゼコールを設立して事が足りるのかは疑問である。
なぜなら、各国の歴史や世情等によって事情が異なってくるからである。
例えば、東大は設立当初から官僚の養成所という性質を持ち、かつては官僚がエリートと目されていたから、エリート養成機関らしく見えたのである。今、官僚を真のエリートと思っている人はどれだけいるだろう。
日本は様々な階層から指導者や権力者を輩出してきたという歴史的事実がある。
織田信長や徳川家康は小大名や国人領主の出自であり、豊臣秀吉に至っては足軽(諸説あるが)の子である。明治維新の中心的役割を果たした人たちは下級武士が多かったという事実もある。
明治後期から戦前にかけては、官僚と財閥、陸海軍の士官学校・兵学校を卒業した軍官僚が指導的役割を果たしていて、一見エリート支配であった。
戦後は官僚支配は続くものの戦前と比較して相対的に力が弱まり、経済を牽引したのは様々な出自からなる経営者たちであった。
日本においては特定の教育機関を出たからエリート予備軍になる、というシステムは馴染まないのかもしれない。
ただ、政財官のエスタブリッシュメントにとってはエリート養成機関があった方が都合が良い。
自分たちの既得権を守ってくれる「エリート」が決して自分たちに牙を剝いてこないという安心感を得るために、意に沿ったエリート予備軍を生み出す教育機関が必要なのだ。
出自や学歴に関係なく、指導的役割を果たす人たちが次々と現れる社会の方が面白く、健全でダイナミックなものとなる、と僕は思っている。