仕事に没頭するのは良いことだ。
しかし、知らず知らずのうちに仕事に依存する状態は尋常ではない。
仕事=人生という価値観が何の疑いもなく受け容れられる社会はやはり異常である。
初出 2014/11/13
例えば酒を片時も手放せない状態に陥ると「アルコール依存症」とされ、医療ケアの対象となる。
この「依存症」の対象物は幾つもある。ギャンブルもそうだし、買物だってそうだし、セックスもまたそうである。
何かに依存して精神のバランスを保つという行為は現在では医療ケアの領域となっている。あるものに依存すると、いつかは破綻をきたす虞がある。身体だけではなく精神をも壊すことさえある。依存症はかつては(特にアルコール依存症は)個人の責任、精神的な弱さに原因を求める風潮があった。今では依存症は「病気」であり、適切な治療を要するものとされている。
仕事中毒、ワーカーホリックもれっきとした依存症である。仕事に依存しているのである。
仕事をしていないと落ち着かない、膨大な量の仕事がありそれをこなすことに快感を覚える、休むことが怖いなどは仕事依存症・仕事中毒へ片足を突っ込んでいる。
仕事中毒の怖いところは、そのこと自体が異常とみなされにくいことである。逆に仕事に没頭しすぎることによって高評価を得ることが多い。すべてを仕事に捧げることが美徳であるという価値観がこの社会には蔓延っている。また、勤勉が美徳であり、労働至上主義的な価値観が正しいと思い込まされている。
もうひとつの問題は、多くの人たちが「仕事中毒」にさせられていることである。仕事に人生を捧げることを強いられていることに注目しなければならない。
冷静に考えれば、仕事なんか人生の一部に過ぎない。日常生活の中で一部を占めるに過ぎない。
24時間死ぬまで働くなんて異常で馬鹿げている。
僕たちは奴隷ではないのだ。
たとえ、自分がしている仕事がやりがいがあり面白いものであっても、仕事に自身を埋没させることはやはり異常なことであると思う。仕事だけが社会活動ではないし、仕事だけが人生ではない。
仕事中毒が異常なことであって、時として医療ケアも必要となることを知っておくべきである。
また仕事中毒的働き方を賞賛するような風潮も改めなければならない。
月並みな表現にはなるが、僕たちひとりひとりが仕事以外の場で「居場所」を用意しておくことが大切である。それは趣味でもいいし地域活動でもよい。僕たちは地域社会の一員であるとの自覚を持つ必要がある。決して会社組織の一員であることがすべてであるという錯覚に陥ってはならない。
仕事中毒であることは、人として偏りがあり、視野が狭くなり、単一の価値観に縛られている、ということである。
まずは、仕事だけが人生ではないと気付くことである。
「仕事人間」から、ただの「人間」に還ることである。