希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「人を切らない」社会を切望する件

僕は現下の効率性重視のそして儲け第一主義の資本主義体制に馴染めないでいる。

経済成長至上主義の風潮にも違和感を覚えている。

 

人は人である限り何人もゆとりのある文化的な生活を営めなければならないと、僕は思っている。

「労働」においては能力の多寡によって処遇の差が出るにせよ、能力が劣るとみなされる人たちを排除することはあってはならないと考える。

心身の病気や障害があることを理由にそれらの人たちを包摂できない社会は寛容さに欠ける生きづらい社会である。

何らかの理由によって働けない人たちを「怠け者」だの「クズ」だのといってバッシングし、簡単に見捨てるような冷たい社会であってはならない。

 

企業社会ではいとも容易く労働者を切り捨てる。

経営者の無能さのツケを労働者に背負わせて、当の経営者は厚顔無恥にその地位に居座り続けている。リストラという名のクビ切りを首尾よく成し遂げた者が名経営者だと褒め称えられる。

会社だけが肥え太り、労働者は搾るだけ搾り取られている。

会社は何のために存在するのか。

利益を追求するためだけに存在するのではない。

会社は社会的な存在である。生産する商品やサービスで社会に貢献してはじめて会社が存在する意義があるのだ。株主だけではなく、取引先や社員の幸福を増進するために存在するはずである。

労働者を切り捨てることによってはじめて利益が出るような会社は市場から退出すべきである。

 

働けない人たちや働かない人たちを社会に不要なものだと捉え、社会から抹殺しても恥じないようなメンタリティが充満している社会は恐ろしい。

経済活動の量のみを価値判断の基準とする社会は息苦しい。

雑多な人たちが様々な営みをしている社会が真っ当な社会である。一律の価値観で人を振り分けるような社会はタチの悪い全体主義である。

カネは稼げないが何やら訳の分からない面白いことをしている人たちがいて、一方で会社勤めや商売をしている「真っ当な」人たちがいて、両者が共存して「何となくうまくいっている」社会が寛容さのある風通しの良い社会である。もちろん、病気の人、障害のある人、ニート、引きこもりの人も肩身の狭い思いをしない社会でもある。

 

上述の生きやすいと思われる社会は実現可能であり、決して理想論に終わるものではない。

一言で言えば「人を切らない」社会になればいいだけの話である。社会ダーウイニズム的な強者にのみ都合の良い考え方を拒否するようなコンセンサスが存する社会にすればよいだけなのだ。

 

僕たちは今一度問い直すべきである。

「人を切る」ということがいかに残酷で非人間的な所業であるかということを。

「人を切る」ことがエスタブリッシュメントの持つ強者の論理を補完することになることを。

 

僕は「人を切らない」社会を切望している。

どのような人たちも包摂するような社会を切望している。

人が人として当たり前の幸福を実現できるような世の中を真に切望している。