僕はひとりで行動することを好んでいる。
何人かで集まってワイワイするのも好きだが基本は単独行動である。
ひとりで喫茶店に入り、タバコを吹かしながら読書しているときが至福の時間である。
今の学生は「ぼっち」になることを忌避していると聞いたことがある。ひとりきりで食事をしているところを見られたくないらしい。友達が少ないことが大きな悩みにもなっているという。
人はひとりきりで生まれてきて、ひとりきりで死んでいく。この点については何人も平等である。
いくら資産があろうとも社会的地位が高かろうと関係ない。人は誰でも孤独なのである。
「孤独」になるということは人としての特権なのだと捉えることができる。人は社会的な生き物であり、他者との関わり合いなしでは生きていけない。世間のしがらみからは逃れられないものなのだ。同時に自分の意志で「孤独」になることもできる。孤独になればほんの少しだけれども「自由」を手にすることが叶う。孤独を味わっている時には世間や社会のしがらみに煩わされることもない。
僕は孤独の時は有意義なものだと思っている。
自分という人間を見つめ直すためにも必要だと考えている。井戸を深く掘るように自分を掘り下げて、根源的な問いかけを発し続けるためにも。
時には内省的になることも必要だ。
今まで自分が歩んできた道のりを振り返ってみることが、今後の自分の行くべき先が定まることにつながってくる。
このことは孤独に身を置くことによってこそできるものだと思う。
答えは出ないかもしれないけれども、そのプロセス自体が大切なのである。
僕たちは他者の評価や他者から見えるイメージを自分に重ね合わせて、自分という人間像を認識している。
他者から自分がどのように思われているかを自分の評価基準にしている。
これはこれで悪くは無いのだが、度が過ぎると他者の眼ばかり気になって身動きが取れなくなるおそれがある。自分自身を見失ってしまうことにもなりかねない。
やはり、等身大の自己像を思い描くためには、自分を深く掘り下げる必要がある。その際に「孤独」の有用性がある。
孤独を恐れることはない。
真の意味での自己の成長につながるのは、いかに孤独の時を過ごすかにかかっている。
孤独を愛することは人としての特権である。