希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

我慢をしすぎるのはよくない件〈改題・再掲〉

雇われ人、特に大企業のサラリーマンは「我慢合戦」を強いられている。

職種は変わる、勤務地は変わる、上司の命令は絶対などなど精神衛生上良くないことのオンパレードである。

必要以上のガマンなんてすることはない。

 

初出 2014/10/21

 

この社会では我慢することが尊ばれる風潮がある。嫌なことや辛いことがあっても我慢し続ければ何とかなるというイデオロギーである。

我慢をし続ければ展望が開けるという合理的な根拠は存在しない。ただ我慢を続けられることこそが人間的な成長を促すと洗脳されているに過ぎない。

 

人が自分にとって好ましくない状況にあるときには我慢ができるかどうかがその人の評価になる。

以前よりはかなりましにはなったが、結婚と離婚を繰り返す人や転職を繰り返す人に対しては世間の目は冷たかった。その個別の事情は考慮されない。ただ我慢ができなかったことのみをもって判断されるのだ。

 

この国の会社の多くは社員に「我慢合戦」を強いている。自分の適性に関係なく職種を決められる。自分の希望する部署に配属されるとは限らない。転勤によって意に反した勤務地に飛ばされたり単身赴任を余儀なくされたりする。長時間労働に耐え、サービス残業を受け入れなければならない。無限に働かされるのだ。

終身雇用という安定した雇用形態の下では、これらのような働き方であっても労働者にメリットはあった。我慢のし甲斐があったのである。しかし、今後はこの我慢に対して会社が報いてくれるという保証はない。我慢が徒となることさえ起こりうる。

 

僕は何事に対しても自分のできる限度内での我慢は必要だとは思う。生きていく上で忍耐力は必要なものだし、我慢をした経験が活きる場面にも出くわすからだ。

しかしながら、度を超えた我慢、自分の誇りを傷つけられるような我慢はする必要がないと思っている。限界以上の我慢を続けていると、自分というものを失うことにもなりかねない。極言すれば奴隷根性から抜け出せなくなる。我慢をし続ける自分に自己陶酔するという歪んだ精神状態に陥ってしまうおそれもある。我慢している自分を正当化し、自分がなすべきことをしなくなる危険性もある。

 

我慢はこの社会では美徳だと考えられている。

逆に自己主張することは忌避されている。

このマゾヒズム的な精神構造は果たして健全なものなのだろうか。

嫌なものはイヤだ、と素直に自分の考え方を表明し、それを行動に移すことは単なるワガママなのだろうか。

 

僕は嫌なことや辛く感じることを無理にやり続けることは不毛なことだと思っている。

長くはない人生、一度きりの人生でこの不毛なことを続けることは貴重な時間の浪費だと思う。

 

僕は世間からどのように思われ評価されようとも、必要以上の我慢はしたくない。

人生は楽しむためにあるものだから。