希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「指示待ち人間」で十分だという件

「意識の高い」人は指示をされる前に自分で判断して行動し、そのような人が会社・組織の求める人材だという。

いちいち指示を待って行動するような人は創造性も自律性もないどこにでもいる人材だとみなされる。もっと言えば、「使えない」人材である。

自分で課題や問題点をすすんで発見し、解決を図るのが経済界にとって望ましい人材らしい。

これらは一見正しい言説である。

「指示待ち人間」では流れの激しい経済状況下では生き残れないという。

 

会社をはじめとする組織では指揮命令系統が正しく機能していなければならない。またスタンドプレーを排除し、集団プレーが重んじられる。

組織では指示内容を確実に履行することが求められる。自分の職務の範囲内においてである。

要は、指示通りに動きかつ指示内容にプラスαした成果を出せということである。そういった人が組織内では優秀だとみなされる。

言うは易しであるが、これは結構キツイことだ。

個の力を出しすぎるとバッシングされ評価もされないし、指示通りの成果だけだとこれまた評価は高くない。

あまりにプラスαの成果を出そうとすると、労働強化になり、長時間労働を生み出す温床となるし、労働密度が濃くなり労働者は疲弊する。

 

本来、労働契約では会社が指示する職務内容を果たせば十分なはずである。労働者個人に必要以上の創意工夫を求めるのは経営者のエゴである。労働者は仕事内容が効率化できるような創意工夫をすれば足りるのである。新たな仕事を次々と作り出すような創意工夫は労働者自身の首を絞めることになる。

 

ほとんどの仕事はルーティン・ワークから成っている。また、上長からの指示を受けてする仕事が大半の部分を占める。

となれば、「指示待ち人間」でも労働者としての責任は果たせる訳である。逆に下手に先回りして余計なことをすると、人事評価は芳しいものではなくなる。

 

「指示待ち人間」を否定するような風潮が広がれば、それは即ち労働者へ過度な負担を課す社会になる虞がある。本来は経営者や経営幹部がなすべき事柄を末端の労働者に担わすことにもなりかねない。権限の委譲は一見良いことのように思われるが、下手をすると無責任体制を生み出すことになる。

 

僕は雇われ人は「指示待ち人間」で十分だと思っている。消極的な意味合いを持つような「言われたことだけをする」とは少々異なる。

その仕事の指示内容を十分に汲み取り、成果を100%に近づけるようにする。この程度の「創意工夫」は必要である。

労働者としてのプライドでもある。

 

ネガティヴな性質を持つ「指示待ち人間」ではない、本来の意味での「指示待ち人間」となり、確実に職務を果たすことが大切だと思う。

労働者としての矜持や誇りを失わないためにも。