希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

生きていることが仕事だ、と言ってみたい件

「生きていることが仕事だ」という言葉が強く印象に残っている。出典は忘れたが、この言葉だけが心に残っている。

 

僕たちは何らかの形で働くことが当たり前だとされている。重い障害があったり、病気をしていたりすれば別だが、基本は人は働かなければならないとされている。

 

僕は働くことができる状況にある人は働くべきだという考えを持っている。働くことによって他者とあるいは社会とつながることができると思うからである。自分の居場所が見つかる可能性があると考えるからである。

逆に言えば、社会や他者とのつながりが希薄な労働や居場所がないような労働はしなくてもよいとなる。ただカネを稼ぐことだけが目的で精神に負荷がかかり自分の存在価値が毀損されるような労働は害だけがあるということになり、そのような労働を押し付けることは間違っている。

今の労働現場には残念ながらこのようなところが結構存在する。しかも労働条件が劣悪であることが多い。

 

働くことに価値を置く考え方をしていても(僕は勤労至上主義に与しないが)、劣悪な環境下にある仕事を無理強いすることはできない。

自立支援やワークフェアの理念には共鳴するが、生活困窮者を劣悪な労働市場に押し込む虞があることに十分に留意する必要がある。

 

なぜ人は働くのか。

普通に考えれば生活費を賄うためである。余裕のある豊かな生活を目指して働くのである。その「余裕」や「豊かさ」の内容は人それぞれであり、一律に決めることはできない。物質的な豊かさを求める人もいれば、ゆとりのある時間を求める人もいる。どちらが正しいかは一概には言えない。豊かな消費生活を謳歌することは資本主義社会では正しい性向である。消費社会に異を唱えて、ダウンシフトする生き方もこれまた正しい方向である。

価値観は多様である方が、またそれぞれの価値観を認める社会である方が生きやすい社会である。

 

繰り返すが、人はなぜ働くのか。

それは「生き延びる」ためであると僕は思っている。生きているという実感を得るために働くといってもいい。「生きている実感」と結びつかない労働は苦役以外の何物でもない。たとえ莫大な報酬を得られようとも、生きている実感を得られない労働は味気ないのではないだろうか。

 

突き詰めていけば、「生きていることが仕事だ」という境地に達する。

たとえ働くことができなくても、生きているだけで価値がある、という考えを多くの人たちが共有することができれば寛容な生きやすい社会になると思う。

人の持つほんの一部の能力、例えばカネを稼ぐことができるかどうか、によって人を選別し、序列化して様々な差別を生み、格差を生じさせる社会はやはり異常なのである。

 

生きていることが仕事だ、と一度でいいから僕は声を大にして言ってみたい。

苦役的な労働から逃れて、生きている実感をこの手につかむために。