僕はかつて市場主義、新自由主義の信奉者であった。
弱肉強食で能力主義である社会が健全で活気のある社会だと思い込んでいた。
今は公正で機会の平等が保障され、節度のある資本主義社会が良いと考えている。
初出 2014/10/14
「転向者」という言葉、これは今ではもう死語なのかもしれない。
かつての左翼イデオロギー、マルクス・レーニン主義を信奉していた人たちが、その思想を捨てて主に保守主義・右翼に転じた際に「転向」と呼ばれたのである。「転向」あるいは「転向者」とは左翼側が意に副わない人たちを非難・蔑視するときによく用いられた言葉である。
これらは左翼陣営の傲慢さ・硬直さ・偏狭さがよく顕れている。自分たちこそが正義で、そのイデオロギーを捨てた者・背を向けた者は悪であり、堕落した者たちだと言いたいのだ。
僕は「転向者」である。
ただ、左翼であったわけではない。尤も高校時代に民青(共産党の青年組織)で活動もどきをした経験はあるが、とっくの昔に足を洗っている。
僕は市場至上主義・新保守主義・競争万能主義等から「転向」したのである。
以前のエントリーでも触れたが、僕はかつて市場主義や競争社会のドグマに浸っていたのである。
年功主義の処遇に不満を抱いていた。
社会のシステム(特にビジネスの領域)はすべて能力主義であるべきだと考えていた。
競争に勝ち残れない者は敗残者であり、人間としての価値が無い者だと考えていた。
フリーターやニート、ひきこもりの人たちは単なる甘えであり、ただの怠惰な者だと見下していた。
僕は自分がこの社会での「勝者」にはなり得ないと分かり、またこの「勝者」になることに意味があるのかと疑問を抱くようになり、スタンスが変わったのだ。
様々な価値観を持った人たち、変わった生き方をしている人たちと出会ったことも大きい。
何より、僕が根が怠け者のダメ人間であり、真っ当な生き方をすることが息苦しいと遅ればせながらに気づいたことで「転向」するに至った。
僕の今の立ち位置は保守に近い中道左派だと自認している。
エリートの必要性は認めるが、今この社会ででかい顔をしている自称エリートどもは認めない。私利私欲ばかりで既得権の拡大と維持ばかりに血道をあげる輩はエリートではない。
社会的弱者を放置し苛め抜き、強者の利益ばかりを追求して経済的格差を極大化しようとするエスタブリッシュメントの傲慢さ・強欲さ・厚顔無恥を許せない。
社会の不公正さに目を背けることができない。
機会の平等を実現すべきだと思っている。ただし、すべての人が平等であるべきだとは考えていない。悪平等の弊害は大きいと思っている。
競争社会は是とするが、そのスタートラインに差をつけてはならないとのスタンスである。
競争に敗れた人たちに対しては敗者復活の道が用意されていなければならない。また、競争に敗れて深手を負った人たちに対しては立ち直るための支援策も必要である。たかが一度や二度のしくじりでその人の未来を閉ざしてはならない。
僕は「転向者」となって以前よりも生きやすくなった。
他者に対する眼差しも少しは優しくなったような気がする。
変わった生き方をしている人たち、道を外れた生き方をしている人たちが好きになった。
これらが良いことなのかは分からない。
自分の生き方が正しいのか、これまた分からない。おそらく、死ぬまで正解は出ないだろう。
けれども僕は、「正しさ」よりも「楽しさ」を追求する生き方をぶれずに貫いていこうと、今は思っている。