希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

自己責任論について考える件〈再掲〉

僕たちが生きていく上で必要最低限の自助努力はなすべきだと思う。

しかし、社会的弱者に対して過度な自助努力・自己責任を負わせることには同意できない。

自助努力をしたくてもできない状況にある人たちがいることに思い至るべきである。

 

初出 2014/10/7

 

僕はこのブログで幾度も度を過ぎた自己責任論を批判してきた。

人が人生につまづいた原因を何でもかんでも自己責任に帰するような風潮はおかしいと主張してきた。

この社会では、社会的強者には自己責任が問われず、社会的弱者ばかりに自己責任を強いるという不条理が存在する。政府やエスタブリッシュメントは庶民に自己責任を押し付けることにより、己の果たすべき責任から逃れようとしている。欺瞞に満ちた社会が今ここにある。

 

確かに僕たちが生きていく上で自助努力は絶対に必要であり、自分がなした行為に対して責任を負うべきことも多い。「自由」を追い求めるのならばそれに伴う義務や責任を負わなければならない。

 

ただし、人のなした行為についてすべてに自己責任を求めるのは無理がある。

例えば仕事に就くことにおいてはその時々の経済状況に大きく左右される。不況期には、たとえ能力があり実績があっても就職が難しい。これは本人の責任ではない。社会に原因があるのだ。

就職氷河期に正社員の職を得ることができずに、フリーターにならざるを得なかった人たちに対して、「本人の責任」とか「努力が足りない」とか「能力が足りない」としてすべての原因を自己責任とするのはあまりにも酷である。

ニートやひきこもりの人たちに対するバッシングも同様である。働けないのは、あるいは働かないのは社会構造の歪みに主たる原因があるのに、すべての責任を本人に押し付け、自己責任論に収斂するのは誤った認識である。

 

そもそも、「真っ当に生きている」人たちが本当にすべてが自助努力によるものなのか。

きちんと自己責任を果たしているのか。

多くのサラリーマン(正社員)は会社におんぶに抱っこで、会社に依存していないか、よくよく考えてみることだ。

 

ちょっとだけ本質論的に考えてみよう。

人は自分のなしたすべての行為について己ひとりのみですべての責任を負えるほど立派な存在なのか、ということである。

僕は自己責任論はある意味傲慢な考え方だと思っている。

その考えの前提には人は己の行動に対する全責任を負う能力や資格を持っているという「人間全能」的なものがある。

果たしてそうだろうか。

人はそれほど完璧で強い存在なのだろうか。

僕は違うと思う。

人は不完全で弱い生き物である。

人はひとりでは生きていけないし、他者の手を借りないと社会生活を営むのも覚束ない。

 

自己責任論は人間に対する洞察を欠いた幻想に過ぎない。