希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

会社に恩を感じることはない件〈改題・再掲〉

会社に不当な扱いを受けたときに「会社のために尽くしたのに」という泣き言を言う人がいる。

これはおかしな話である。

社員は会社に「労働力」を提供して対価として給料を得るという労働契約に基づいた関係にあるに過ぎない。まだこのようなウエットなものが生きているのが不思議に思う。

 

初出 2014/10/5

 

江戸時代の武士は主君に尽くして恩義に報いる生き方が美徳とされていた。一般的に武士道と呼ばれているものである。主君に滅私奉公し家名を上げることが第一義とされていたのである。

今の僕たちの価値観からするといかにも前時代的であり、当時の武士はしがらみに縛られて大変だったなぁ、と他人事のように感じられる。

 

今でも必要以上に会社に恩義を感じ滅私奉公している人たちがいる。本人たちは意識しているのかどうかは分からない。

自分が今あるのは会社のおかげだと思っている人たちは結構いるのではないだろうか。一方で自分の実力や能力の賜物だと嘯いている人も少なくない。双方ともに極端すぎると思う。前者はあまりにも自分というものがなさすぎるし、後者はあまりにも傲慢である。人は他者との関わり合いの中で生きていて、他者との助け合い中で自分を向上させるものだ。要はバランス感覚が大切なのである。

 

僕は会社や組織に必要以上に恩義を感じる必要はないと思っている。

会社が社員を雇うのは、その社員が何らかの形で会社に利益をもたらすものだとソロバンをはじいてなすものである。社員の方は自分の労働力を提供して対価として賃金を得るだけの関係である。

会社と社員の間にはビジネスライクな関係があるだけであり、それ以上でも以下でもない。

 

会社が社員に成長を促すためにOJTを絶えず繰り返し、研修を行うのは「会社にとって有用な人」を生み出すためである。決して社員が人間的に成長する(汎用性のある)のを単に手助けするわけではない。

社員の「成長」によって、会社の利益の増大を図っているに過ぎないのである。社員個人の幸福実現のために社員を育てているわけではない。

僕はこれでいいと思っている。

個人の幸福の実現はあくまでパーソナルなものであり、自分自身のやり方で行うべきものである。それを会社に依存するのはおかしいし、仮に自分が幸福だと感じられるとして、それが会社のおかげだと感じるメンタリティは危ういものだと思う。

 

確かに僕たちは仕事を通して成長するということもある。それは上司や先輩や同僚、取引先等の関係性の中でなされるものである。「人」を通して様々な経験を積み成長が促されるものだ。

もし、会社に恩義を感じることがあるとすれば、そのような「人」との出会いの場を提供してくれたことにのみ感謝すればよいだけの話である。ただし、それとて会社の発展や利益拡大のためのものに過ぎないと、冷静に客観的に見る態度も必要である。

 

僕のこのような考え方は個人主義的あるいは利己主義的といえるかもしれない。

僕は一会社で働くときの態度は個人主義でいいと思っている。資本主義の本質は突き詰めれば個の利益の拡大を図ることにあるからだ。

会社はそれ自体資本主義の論理に沿って利益の拡大こそに存在意義がある。しかし、会社の成員たる社員に対しては組織(集団)の論理を適用しようとする。

この両者の間にはジレンマがある。

当然に会社は組織であるので、組織の論理を優先する。会社に過剰なコミットメントを求めて、スタンドプレーを嫌う。会社のために働けというプレッシャーを社員に与え続ける。

そしていつの間にか社員は会社の論理に適合した会社人間となる。さらには会社に恩義を感じるという倒錯した精神状態に陥る。

 

僕は会社や組織との関係は仮初のものに過ぎないと考える醒めた視点も必要だと思っている。

会社に人生を捧げる生き方は異常である。