希望の舎―再生編ー

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入試に「人間性」を持ち込むのはおかしいという件

現在、大学入試の方法を変えようとの議論が進んでいる。従来の学力を測る入試方法から、人間性を見る方式に変えようということらしい。

これまでの受験知識偏重の選考方法から、多角的に判断する方法へと変え、国際化や価値観の多様化に対応するのが狙いだという。この論は一見正しいように思われる。時流にも乗っているし、産業界の要請にも応えるものだ。

 

しかしながら、僕はこの「人間性」をみる選考方法に胡散臭さや危険性を感じている。

 

 

確かに偏差値至上主義的な入試方法には弊害もある。偏差値の高い人間が、人として優れているわけでもない。

 

僕なりに考える「人間性」重視の選考の問題点を挙げていこう。

 

 

まずは「人間性」というものを測定することが困難なこと、何をもって人間性が優れていると判断するのか、その根拠が曖昧すぎることだ。まだ未成熟な18歳の時点で人間性を判断するのも無理がある。

また判断基準が変わると、人間性が高い(あるいは低い)人が恣意的に決められてしまうおそれがある。例えば国家や企業に従順な者が価値が高い、という基準であれば、それこそ国家や企業にとって都合の良い人物のみが最高学府に入るということになりかねない。

次に、現行の制度でも推薦入試やAO入試のように人間性らしきものを選考の基準にしたものもある。これらの入試制度は主に私立大学による学生の青田刈りの性質が強いものだが、学力一辺倒の入試を行っていないという事実でもある。

 

僕が「人間性」を強調した入試を危惧するのは、その選考が人間そのものの「選別」にほかならないということだ。学歴社会による学歴ヒエラルキーから人間そのものの序列化に変わりはしないかということだ。

 

確かに学歴社会には負の側面も多々ある。高学歴者は優れた人間だと見る風潮もあるだろう。

しかし他方で高学歴者は、単に学力が18,9歳というある時点で高かったに過ぎない、社会で活躍するための絶対的な必要条件ではない、という社会のコンセンサスも存在する。これは健全なことだと思う。

 

学力が高いことは人間の持つ能力の一つに過ぎない。スポーツが得意・絵を描くのがうまい・楽器を上手く演奏できる等、人間が持つ様々な能力と等価なのだ。だからこそ、学歴社会であっても、高学歴者もそうでない人も、自分なりの幸せを追い求めて生きることができるのだ。

 

高学歴者=人間性が優れている、というお墨付きを与えた社会は、多くの人間にとって生きづらい社会となるだろう。人々を「選別」する社会は、人間の自由や尊厳をも奪いかねないからだ。

 

 

  

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