希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

そもそも「グローバル人材」って何、という件

昨今の企業経営においては、市場を日本国内だけに求めていてはジリ貧となり、海外市場に積極的に進出する必要性が高まっているといわれている。中小企業においても、大企業と同様に世界で勝負しなければならない。また介護や飲食店といった国内で完結すると思われていた業界でも、海外進出の波が押し寄せている。

グローバル・スタンダードなるもの(実態はアメリカン・スタンダードに過ぎないが)に沿って企業活動を行わなければならないのだから大変である。ローカルな場で、ひっそりと生きている僕からすると遠い世界のお話のようで実感が湧かない。

 

世界市場で会社が生き残るためには、「グローバル人材」の育成が急務である、と叫ばれている。大学においてもグローバル人材を育成する場となるべきだという主張がメインストリームになってきているし、それは高校まで、いや小中学校まで降りてくる勢いである。学校教育の段階で国際化に対応した人材を育成すべきという考え方は、一見正しいように思われる。かつては会社に入社後の段階的な教育訓練や実務によって培われたものだが、今では会社にそんな余裕はないともいわれている。

 

しかしながら、学校教育に「グローバル人材」の育成を期待するのは限度がある。留学して語学力を磨き、コミュニケーション能力を高めるような活動をしたスーパー学生でも、企業が求めるグローバル人材であるかは未知数だし、またそんな学生はほんの一握りに過ぎない。勉強して得られた知識と企業活動での実務とは違う性質のものでもある。やはり企業での実務経験と訓練を経ることによって、グローバル人材へと変わっていくものなのだ。

 

ここで、僕は疑問に思う。

そんなに「グローバル人材」ってそれほどに必要なのかと。

ある程度の数のグローバル人材は必要だということは、僕もそう思う。

国内、いやもっと狭い範囲のローカルな商圏で活動する企業においては、グローバル人材は別に必要ではない。海外市場で活動する会社においても、特定の部署だけで必要となる人材ではないか。いわば、グローバルかローカルかの守備範囲が異なる「働き方」のひとつに過ぎないのではないかと思うのだ。新卒・中途入社の採用基準がすべてグローバル人材であるか否かというのに大いなる違和感を覚える。特に新卒の就活において、グローバル人材でなければ、そこそこの会社に入れないという錯覚を招きかねない。グローバル人材でなければ、有能な人間ではないという単一的な価値観が生ずるのも危うさを感じる。

 

人それぞれに求める働き方も異なるし、適性ということもある。ローカル人材でも豊かな人生を送れるはずだし、グローバル人材のみが素晴らしい人生が待っているというわけではない。

ましてや、グローバル人材がローカル人材よりも人間的に優れているという考え方は間違っている。繰り返しになるが、あくまでも働き方についての選択肢の一つに過ぎない。

 

グローバル人材だと持て囃されても、会社内で高待遇を得ても、所詮は「労働者」だということを忘れてはならない。