希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

べーシックインカムについて考えてみる件〈再掲〉

生活保護は何かと使い辛い制度である。

かと言って貧困問題を放置することは許されない。

貧困問題を解決する方法のひとつとしてベーシック・インカムを考えてもよいと思う。

 

初出 2014/9/13

 

ベーシック・インカムとは、すべての人に無条件で個人単位で生活保障のための給付を行う制度である。現行の生活保護のように選別のための資産調査をしないし、社会保険のように個人の社会保険料負担をしないものだ。

ベーシック・インカムは何も目新しい制度ではない。資本主義が勃興した200年前から唱えられている。近年では著名な経済学者であるフリードマンやガルブレイズもベーシック・インカムに言及している。イギリスやイタリアなどのヨーロッパ諸国ではベーシック・インカム導入のための運動もあったり、緑の党のように公約にしている政治勢力も存在している。

 

僕はベーシック・インカムに全面的に賛同するわけではないが、その基本理念には共感している。

人として生まれてきたからには、何人も無条件に人間的・文化的な生活を営む権利があり、その保障を国家はなすべきだという考え方は理に適っている。現行の社会保険をメインにし公的扶助で補完するという社会保障システムに限界が見えるのも事実だ。また福祉受給者、特に公的扶助(生活保護)受給者にはスティグマ(恥辱感)がつきまとうし、働く意欲を喪失するケースも散見される。

現行の社会保障制度を根幹から変革する可能性があるのがベーシック・インカム的な制度である。

 

ベーシック・インカムを導入すれば人は働かなくなるという批判がある。

これは人間の本質を誤って捉えた考え方である。

人はカネのためだけに働くのではない。

自分の存在証明・自己実現・他者からの承認、そして社会とのつながりを持つために働くのだ。自分の社会においての役割を果たすことで満足感が得られていることも忘れてはならない。

確かに一部の人たちは働くことをしないかもしれないが、その「働かない」選択も認めるような寛容さが社会には必要である。

ベーシック・インカムが導入されれば、劣悪な労働条件で働き続けなくてもよくなる。一方、「人の嫌がる仕事」の待遇が良くなり、「人がしたがる仕事」の待遇は悪くなる可能性もある。

ベーシック・インカムによって生活が保障されるようになると、従来の労働観が変化するかもしれない。それにつれて人生観や価値観も変化する可能性がある。

 

この国の社会保障制度下では、現役世代の給付が貧弱なために「飢餓への恐怖」から劣悪な労働条件でも働かなければならない人たちが膨大な数だけ生み出されている。極端な表現を用いれば、「強制労働」「奴隷的労働」を強いられている人たちが多く存在する。

ベーシック・インカムがあれば、強制労働的な働き方をする必要がなくなる。

 

ただ、現実問題としてこの社会にいきなりベーシック・インカムを導入することは不可能に近い。「働かざる者、食うべからず」的な考え方をしている人たちがマジョリティであるし、労働至上主義・勤勉教が蔓延する社会では、無条件の生活保障は怠惰を生むとの思い込みが世を覆っている。

 

僕は全面的なベーシック・インカムではなく、一部その理念を包摂した制度を実現することを考える必要があると思っている。

公的な住宅手当・児童手当(子育て手当)、大学までの公教育の無償化、税方式の基礎年金などの諸施策を実現することだ。住宅手当や児童手当等は所得制限・配偶者の有無などの条件を設けずに、該当者すべてに支給する。また、雇用保険を拡充し、失業給付と生活保護の中間に位置する給付(長期失業者の生活保障)も必要である。

要は働ける人たちは働く(ただし劣悪な労働条件の仕事は拒否できる)ことを前提としながらも、無理して働く必要がない制度設計をするということだ。無理して働かないというのは、長時間労働・過剰なノルマ・意に反した転勤等を強いられるような働き方を選ばなくても良いということを意味する。

 

ベーシック・インカムの根底にある考え方には大いに頷けるものがある。

ある意味資本主義体制下では当然と考えられていた労働観を覆す可能性を秘めている。社会保障制度が根底から変わるかもしれない。

僕はベーシック・インカム的な考え方が広まることを期待している。