希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

学歴社会は「悪」なのかという件〈改題・再掲〉

僕は学歴社会を否定しない。

どの程度の学歴があるかは比較的客観的な尺度になる場合もあるからだ。

「人間本位」の評価なんて眉唾ものだと思う。

学歴は人の持つ能力の一部に過ぎないと割り切れば結構使い勝手がある。

 

初出 2014/8/23

 

この国が学歴社会であることは間違いない。

様々な学歴社会批判や擁護論が錯綜しているが、前提となっているのは、現に学歴が果たす役割が大きいということだ。

 

欧米諸国は学歴に関係なく能力主義だという言説が流布されているが大きな誤解であり、この国以上に学歴社会である。学歴にプラスして能力や業績が問われる社会なのである。

欧米諸国では学士号だけではエリートになれない。政府・官僚機構の幹部や経営者・経営幹部は修士号・博士号を取得していることが当たり前となっている。フランスではグランゼコール出身者であることが必須条件となっている。

 

学歴社会を批判する人たちは、学力だけで人を選別することはおかしい、人の能力は多岐に渡るという論を主張する。

この論は一見正しいように思われる。

人は生きていく途上で何らかの「選別」を受けざるを得ないのが現実である。高校・大学の入試、入社試験、社内での昇進試験等々。その選別の基準は客観的で公正なものが望ましい。学歴はその人が努力し到達した箇所への指標となる。この国では入学の選抜は誰にでも開かれているし、原則としてコネなどの情実は認められない(私大の医学部等は別)。欧米の有名大学(私立の)の一部は多額の寄付金や出自での情実による入学が存在する。

この国での学歴は、ある人の学力という能力のレベルを客観的に担保するものなのだ。民間企業や官公庁の職員の登用基準として学歴を重視することはある意味公正で客観的だといえる。もっとも官公庁は筆記試験が課され重要な登用基準となっており、基本としてどこの大学を出たかは関係ないことになっている(結果として一部の大学出身者に偏っているが)。

 

もし、学歴を判断基準にしないことになると別のそれが必要になってくる。よく人物重視などと言われるが、数回の面接で公正な「人物評価」などできないし、そもそも人物評価の基準が曖昧で主観的なものになってしまう。やる気や意欲なんてそのレベルを判断することなど不可能だ。

採用基準として、その人の家柄・親の社会的地位・資産・国籍などを設定すればそれこそ大問題となる。階級社会ならば話は変わるが、この国は今のところ階級社会ではない。ただ、高学歴を得るためには家庭環境、親の学歴や職業、資産・収入が関係していることは確かではある。しかし、家庭環境に恵まれていなくても高学歴を得る途は残されている。能力と意欲があれば、恵まれた環境にある人と比べれば障壁を乗り越えなければならないにしても、学歴を得ることはできる社会である。

 

世の中には沢山の種類の仕事があり、学歴が必要なものとそうでないものがある。そして一旦ある仕事に就けばそれ以降は能力主義・業績主義となる。学歴の重要性はかなり低くなってくる。

 

僕は学歴社会を否定しない。

学歴を得ることができる状況にある人は学歴を得た方が良い。

学歴があれば仕事の選択肢が増え、生き方の幅も広がることが多いからである。学歴の必要な仕事と必要でない仕事と双方選べるメリットがある。どちらを選択するかは人それぞれの価値観による。何も大企業のホワイトカラーばかりが仕事ではないし、それだけが幸せになる途ではない。世の中に必要とされる仕事は山のようにある。同時に自分に合った仕事が大企業のホワイトカラー以外のことであることも多々ある。

要は高学歴の人たちが就く仕事が社会的評価が高いという、一面的なあるいは偏狭な考え方を変える必要があるということだ。

 

身分制社会や階級社会の復活を望む人など殆どいないと思う。

学歴社会プラス能力主義・業績主義の社会が完全とは言えないまでも、多くの人たちがそこそこ納得できるシステムである。