福祉や介護に従事するマンパワーの不足が問題視されている。この理由のひとつとしては待遇の劣悪さがある。ベースとなる賃金が安い上に昇給額も低い。施設によっては夜勤や早出・遅出の勤務シフトを採っていて、心身に及ぼす影響が大きい。要するにしんどい割には儲からない仕事の典型だと言うわけである。
僕はケア労働者が定着しない大きな理由として福祉関係の仕事を必要以上に「聖職」化していることに求められると思っている。「聖職」なのだから(実は汚い仕事なのだが)カネのことは言うな、と暗にプレッシャーを世間はかけているのである。
福祉・介護関係の施設の運営はまぎれもなく「商売」である。ケアというサービスを提供して報酬を得るビジネスに他ならない。計量可能なサービスであり、介護報酬というカネに換算され得るビジネスなのである。
また従事するケア労働もあくまで「仕事」である。職務の範囲は労働契約によって決められるべきものであり、ケア労働者は決められたサービスを提供するだけで十分なのだ。必要以上におもてなしの心とか自己犠牲とか共感などをケア労働に持ち込むのは間違っている。これらの押し付けが際限なき労働につながり、労働強化をもたらし、多くのケア労働者が疲弊していくのである。
慈しみの心、自己犠牲の精神、思いやりなどはカネには換算できない計量不可能な性質のものである。福祉の仕事ではそれらは不可分のものとして取り込まれている一面がある。単なる技術的な介助だけでなく利用者とのコミュニケーションが必要とされるのである。
ここに落とし穴があるように思う。
例えば入浴・排泄・食事の介助をするときには声かけをしなければならないが、これは自分の仕事をやりやすくするための手段である。あくまでコミュニケーションは手段であり、コミュニケーションを楽しむことが目的なのではない。この点を履き違えると、ケア労働は精神的に負荷のかかる仕事だという誤解が蔓延することになる。
ケア労働は高齢者や障害者が「普通」に生活をするために手助けをする仕事である。高齢者や障害者の生きがいを創りだすとか、自己実現を図るなどといったものまで担うものではない。
ケア労働者に自立支援以上のものを求めると間違いなく現場は崩壊する。他のサービス業にも見られるような労働者に対しては劣悪な処遇のままで、高付加価値を求めるという風潮は是非とも改めなければならない。
高いレベルでの「おもてなし」を求めるのならば、高いカネを払ってそれ専門のサービスを受けるべきである。
前述のようなことを言うと、すぐに福祉を食い物にするカネ儲け至上主義だとの批判がなされる。
「福祉は心」であるという類の俗な物言いをする輩が跋扈する。
そして福祉施設は利益を出してはならないとかケア労働者はカネではなくやりがいを重視すべきという「やりがいの搾取」を正当化する。劣悪な処遇を見て見ぬふりをする。
ケア労働者は生活のために働いている。
当たり前の話である。
適正な処遇を求めるのは至極真っ当なことである。
福祉はひとつのビジネスである。
福祉に従事する人たちは「労働者」であり、福祉はひとつの仕事に過ぎないのである。
福祉の領域に、あるいはケア労働者にカネをかけたくないという考えの根源には福祉をビジネスにしてはならない、またはそうあるべきという幻想に取り憑かれていることがある。