僕たちは世間の目を絶えず気にしながら生きている。
自分の価値観や人生観が世間のそれとズレていると様々なプレッシャーがかかってくる。
自分の生き方くらいは自分で決める自由があっていいはずである。
初出 2014/8/9
僕たちは世間のしがらみの中で生きている。
法律や道徳といった社会規範以外にもインフォーマルな規範が多く存在し、それらに縛られながら生きている。
僕たちは知らず知らずのうちに世間が良しとする価値観に沿った生き方を選択している。
学校には休まずに通わなければならない。
協調性を持たなければならない。
学校を卒業したら正社員として働かなければならない。
会社をはじめとする組織のルールに服従しなければならない。
年頃になったら結婚し、そして子どもを育てなければならない。
・・数え上げればキリがない。
これらの「きまり」を疑いもなく受け入れて生きている。もし、疑いを持てばその人は「変わった人」「自分勝手」等のレッテルを貼られてしまう。
しかし、世の中には世間のきまりに従うことを潔しとしない人たちも少なからず存在する。
世間からズレた生き方を選んだ人たちだ。
「自由」を求めた生き方を選べば、世間からズレることも多くなるように思われる。完全な「自由」など存在しないが、その人なりの自由を追い求めているのである。
僕も世間からはちょっとだけズレた生き方をしている。
正社員として働こうとは思っていない。
結婚して子どもを持とうとも考えていない。
持ち家なんて不要だと思っている。
カネなんて必要最低限の生活費があれば充分だと考えている。
忙しい日々を送るなんて真っ平ゴメンで、ヒマ人として生きていきたい。
他者からの評価、社会的な評価なんて気にしない。
このような生き方をするようになってかなり生きづらさが軽減された。人生を楽しめるようになった。
確かに真っ当に生きている人から見れば「負け組」なんだろうが、「勝ち組」の人たちは楽しく人生を謳歌しているのか、僕は疑問に思っている。そもそも人生において勝ち負けという考え方は妥当なものなのかはかなり疑わしい。
世間からズレた生き方をしていると、様々な方面から非難されたりするし、時には排除されることもある。
「逃げているだけ」「人生を舐めている」「社会人失格だ」等々の説教を喰らうこともある。
いわゆる真っ当な人たちからすれば、世間のしがらみから逃れようとしているズレた人は存在してはならないものなのだろう。
ズレた人たちの生き方を認めると、自分たちの存在意義が危うくなると感じているのかもしれない。だから、自分たちの価値観を押し付け、その行為が正しいものだと思い込んでいるのだ。
僕からすると、既存の価値観に縛られた生き方は精神的な奴隷だと思えてならない。世間という牢獄に繋がれた囚人であるとも思える。
社会の多様化とは、世間とズレた生き方をも認めること、その価値観を認めることである。
人それぞれの人生観や価値観を認め排除しないことである。
そのような社会こそが多くの人たちにとって生きやすい社会であることは確かなことである。
真に多様化された社会がいつになったら実現するのか、僕には分からない。
ならば、世知辛いこの世の中で、あえて世間とズレた生き方を貫き通し、飄々と生き続けていこうと、僕は思っている。