既得権打破や利権構造の解体等は「改革」を掲げる政治団体のスローガンになっている。
既得権者や利権の獲得に血眼になっている人たちや組織に対する批判も常にある。
既得権や利権を貪り、その座に安住している者たちは「悪」なのだと言いたいのだ。
利権を獲得する行為、既得権を守ろうとする行為は果たして本当に悪いことなのだろうか。
人は社会的活動・経済活動に従事すれば、多かれ少なかれ何らかの既得権を手にすることになる。
町内会長が手にする「うまみ」と多国籍企業が有する膨大な既得権益との間には本質においては大差がないと僕は思う。ただ単に規模の違いがあるだけである。
人は自分が有する既得権を手放したくないものだ。個人であれば、自分が就いている役職等に付随する既得権は何としてでも守ろうとする。組織が有する既得権においても、組織ぐるみでそれを死守しようとする力学が働く。それらは「自然」のことである。
既得権や利権の類はこの世から消えてなくならない。人々が社会生活を営むと必ず存在し続ける。
太古の昔から現在に至り未来に向かっても変わることは無いだろう。
巷で言われている「既得権の打破」とは既存の既得権者から利権を奪い取り、既得権の打破を唱える者がその既得権を享受したいということに過ぎない。政権の奪取はその最たるものである。革命やクーデターはそのための最も過激な手段である。
たとえ「既得権の打破」がなされても、新たな既得権者が生まれるだけの話である。
この既得権や利権を享受する者が一部の特定層のみに固定され、あるいは世襲されることが問題なのだと僕は思っている。
「公正な社会」とは様々な既得権や利権を持つ者がコロコロと変わり、特定の層に固定されていない社会だといえるのではないだろうか。
今は何の利益も得ていない人が、何らかのきっかけで利権を手にする。あるいはその道が開かれている。ただし、その立場は入れ替わることが前提であり、世襲なんてもってのほかだ、というコンセンサスが存在する社会がより公正な社会だということだ。つまり、既得権や利権があることを当然の前提として、それらが一部の人や組織に固定化されないということである。
政治や経済、役所、あるいは社会一般の領域で既得権を巡る争いがあり、既得権者が入れ替わるような社会が一部の特権層が固定されている社会よりはるかに健全である。少々社会システムが不安定になっても構わない。多くの人にチャンスがあり、チャレンジできる環境があることが肝要なのである。
今のこの社会はごく一部の特権層が己の既得権を半永久的に持ち続けるための社会システムを作り上げ、蚊帳の外に置かれている人たちを疎外し、機会を奪い、己に都合よく統制しようとしている。大小様々な既得権者を抱え込み、社会を固定化しようと企てている。
こんなに面白くない社会はない。
活気が失せてしまい発展性もなくなってしまう。
何も持たない人たち(当然僕もそうだ)は「分け前」を寄こせ、と声を上げてもよい。
「既得権の打破」と大上段に構えなくても、「お前らだけで甘い汁を吸うな」と「俺たちにもちょっとはいい思いをさせろ」と主張してもよい。
一見矮小な要求だけれども、これがリアルな庶民の心情である。