学生だったとき、特に小中学生だったときの同調圧力がとても強かったと今にして思う。
僕が通っていた中学校は男子は丸坊主にしなければならなかった。その他にも訳の分からない「校則」が沢山あった。
運動会で組体操をやらされ、冬場の体育の授業はマラソンばかりやらされた。
生徒は先生の思いのままに従う存在であらねばならない、という思い込みがあった。その反動なのかは定かではないが、校内暴力の嵐が吹き荒れていた。
特に義務教育期間中は、「みんなと同じように行動する」ことを強制される。
給食は残さずに時間内に食べなければならない。制服を着用しなければならない。
非合理的で不条理な校則に盲目的に従わなければならない。
団体行動に馴染まなければならず、「協調性」を持つことが声高に叫ばれる。
個人の資質や考えは圧殺されるのだ。
この「みんなと同じようにしろ」という強制は働き出してからも続く。
学校を卒業すれば即正社員として勤めることが真っ当なことだとされている。ブランクがあれば就職に不利に働く。NGOやNPOでボランティア活動に勤しんでもなかなか評価されない。放浪の旅なんかしていたら変人扱いされかねない。
真っ当な勤め人になったらなったで、組織の非合理的な掟に従わなければならない。
例えば朝礼でのフリースピーチ、職務とは関係の無い研修(しかも強制される)、飲み会、付き合い残業などなど数え上げればキリがない。
この国の人たちは横並び意識が強くて、異物を排除する傾向があるといわれている。これらがいつの時代からのものなのかは僕には分からない。
「ムラ社会」「農耕文化」の残滓だとは思うが、これだけとは言えないような気がする。
人は基本的に同質化を志向し、それからはずれた者を排除・差別して心の均衡を図るのだろうか。
他方で競争を好み、上昇志向があり、他者との差別化を図ることをよしとする傾向がある。
僕は同質化と差別化の両方を併せ持つがゆえの「みんなと同じことをしろ」という同調圧力を生むと思っている。
自分は他者より「上に立ちたい」とは思いながら、一方で他者が自分より抜きん出ることが許せない。他者が自分と同じラインに立っていると安心するのだ。もし、誰かが自分たちのラインから上へ抜け出ると何とか足を引っ張ろうとする。
ひとりひとりの「個」を受け入れて認めるという土壌が無いともいえる。もちろん自分という「個」も確立されていない。個人主義を忌避し、一方で利己主義が蔓延る理由がここにある。
「みんなと同じようにしろ」というのは間違いなく暴力だと僕は思っている。
この類の忠告は相手のためを慮ってのものではなく、忠告をした本人の自己保身から出たものである。
「みんなと同じように」生きていては自分を押し殺すことになり、面白くない。
生き辛くなっても、僕は自分の決めた生き方を押し通していきたい。