僕たちは働くことを当然のことだと考えている。
働くことに特別な意味を持たせようとしている。
果たして働くことは当然であり、至高の価値なのだろうか、と改めて考えてみる必要があるのではないだろうか。
初出 2014/7/31
働くことによって人は幸せになれる。
労働は至上の価値があり尊いものである。
この国における労働至上主義的な考え方である。
働くことは苦役である。
これはキリスト教圏の欧米諸国の労働観である。
ただし、プロテスタントは勤勉を尊ぶ傾向にある。
人は幸せになるために働いている。
ただし、働くことが人生の目的ではない。
働かない自由は認められるべきだし、働かなくても人は幸せになれるはずだ。
けれども、僕たちは働くことが当然だという考えを受け入れている。何の疑いもなくこの考えを受け入れている人が大半である。
なぜ人は働くのだろうか。
生活費を稼ぐため、食うために働く。
自給自足の生活では自分や家族のために食料を作るために働く。至ってシンプルである。
賃労働で生計を立てている人たちは生活費(カネ)を稼ぐために働いている。
ベースとなるのは生活を営むために働くということになる。
働くことによって得られるものはカネだけではない。
自分が属する社会や他者からの承認を得ることができる。
社会に受け入れられているという安心感を得ることができる。
自分が他者と社会と繋がっているという実感をもつことができる。
自分の「居場所」をもつことができるという点も大きい。
知的障害者を積極的に雇用し、戦力としている日本理化学工業という会社がある。一時期マスコミにも取り上げられた会社である。
日本理化学工業では50年以上も前から知的障害者を雇用し続けている。経営者の大山泰弘氏の著書『働く幸せ』ではその経緯が描かれている。
大山氏は働くことによって人は幸せになれると述べている。このエントリの冒頭に述べたようなこの国の労働観を反映している。確かに大山氏の著書を読めば感動を覚える。大山氏が卓越した経営者であり、人格者であることが分かる。日本理化学工業の取り組みにはただ頭が下がるばかりである。
しかしながらである。
僕は労働至上主義的なその考え方に違和感を覚える。
知的障害者に仕事の場を与え、彼ら彼女らが生きがいを持つことができたのも事実であろう。
「働くことによって幸せになる」というのは一面の真実ではある。
元々知的障害者は社会から孤立しがちであり、時には排除され続けた存在である。その知的障害者が仕事の場を与えられて、社会とつながり居場所を得て他者からの承認を得られるという体験は何事にも代えがたいと思う。
しかし、それらは労働以外の場でも可能なことである。知的障害をもつ人たちが社会に受け入れられ、人から承認される土壌がこの社会にあれば働く必要はない。
僕は労働至上主義的な価値観に馴染めない異端者なので、大山氏の考え方に全面的な賛同ができないのかもしれない。
人は社会的な生き物である。
自分が社会の成員としての立場を確保し、人から何らかの形で認められていれば、生きがいをもつことができる。自分の居場所があれば生きづらさは軽減される。
それらの手段のひとつとして「働くこと」があるように思う。
働くこと=人生の目的ではない。
働くことはより良い人生を全うするためのひとつの手段に過ぎない、と僕は思う。