希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

もしも困難な状況に陥っても、少しばかりのやる気と希望があれば何とかなる件〈再掲〉

僕は何でもかんでも本人のやる気次第という考え方は好きではない。

希望という言葉を軽々しく使うことも同様である。

しかし、時と場合によってはこれらの言葉が活きることがある。

 

初出 2014/6/29

 

何だか僕の大嫌いな自己啓発本的なタイトルになってしまった。

僕はこれまで何度も困難な状況に陥っている人たちに自助努力を強いてはならないと書いてきた。自己責任論を押し付けてはならないとも述べてきた。

しかしながら、公的な援助や他者に頼りきるのもいかがなものかというのも本音である。

社会との縁を絶たれて孤立している人たちには他者からのあるいは公的機関からの援助は必要である。心身の病に罹っている人たちも同様である。

でも、困難な状況にあるほとんどの人たちはわずかばかりでも社会との縁は切れていないと思う。また、再起への意欲を失ってはいないとも思う。

そういった人たちは最低限の自助努力は必要である。

 

人生がうまくいく要素としては「運」によるものが大きいと僕は思っている。それを補完する要素として意欲や能力がある。

この「運」というものが厄介な代物で、万人に同程度の運が与えられてはいないものなのだ。幸運に恵まれ続けている人もいれば、不運の連続でにっちもさっちもいかない人もいる。両者を隔てるものは何か、僕には分からない。天賦のものだとの考えもあるが、どうも納得がいかない。この運命論的な考えに偏ると、人生はその人の生まれながらの運命によって決まってしまうことになる。絶対に納得できない。

 

僕は程度の差こそあれ、すべての人には運があると思っている。その運を手元に引き寄せることができるか否かが分かれ道だと考えている。運を引き寄せるためには何らかのアクションを起こさなければならない。このアクションが自助努力だと言えるような気がする。

困難な状況から立ち直った人たちの話を見聞きしていると、ささいなきっかけによって運をつかんだケースが多い。どんなに不運が続いていても、いつかは光明が見えてくるものだ。その時に少しばかりのやる気を奮い立たせて、希望を持つことが大切なのである。何も血の滲むような努力は必要ない。その瞬間に自分ができる範囲でのものでよい。そうすれば何らかの形になって、良き結果が得られると思う。

 

一方、少しばかりの意欲を持てず、希望も見出せない人たちもいる。これらの人たちへの明確な対処法はない。放置しておけば、立ち直るきっかけさえつかめぬままに状況はさらに悪化する。

ただ、人はちょっとした「きっかけ」で意欲や希望を取り戻すこともある。

この「きっかけ」は誰にでも訪れるものである。

希望や意欲を失った人たちには、他者は寄り添ってこの「きっかけ」づくりをすることだけしかできないと謙虚な姿勢で臨むべきだと思う。人が人を救うことができるという考えは傲慢である。

 

どんなに絶望的な状況にあっても、わずかばかりのやる気と希望さえあれば、道は開けると僕は信じている。

 

人生は捨てたものではない。

 

・・と何だか「自己啓発」的な色合いのエントリーになってしまった。

僕は無責任な言説を垂れ流す多くの自己啓発物は嫌いである。

僕はこのエントリーを実体験に基づいて書き綴った。

人は弱い存在ではあるが、しなやかで、なかなかにしぶとい生き物であるという確信を持って。