希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「労働」をすべて市場原理で解決できるのかという件〈改題・再掲〉

僕たちは「商品」ではない。

感情を持ったヒトである。

昨今は労働に関する諸問題を市場に委ねよ、という言説が幅をきかせている。果たしてその通りなのか、眉唾ものなのではないか。

 

初出 2014/6/1

 

資本主義社会では完全とはいえないまでも市場原理が支配している。

需要、つまりある商品やサービスを欲しい人が増えれば価格が高騰する。逆に供給、つまり企業等が提供する商品やサービスが巷に溢れて余ってしまうと価格は下がる。現在は完全な自由競争ではないので、一概に需給バランスのみで価格が決まるわけではない。

 

労働は労働者が提供するサービスという一面がある。より多くの労働者が求められる状況では賃金は上昇するし(売り手市場)、会社が労働者を選別できる状況では賃金は下降する(買い手市場)。

ただ、労働契約は通常の契約と異なる性質を持っている。会社と労働者が合意した条件で雇用されれば問題がないように思われるが、必ずしもそうではなく様々な労働規制がかかっている。

例えば労働者のスキル不足を理由にして時給300円で働かせることはできない(一部例外はある)。最低賃金法に抵触するからだ。稼ぎたい労働者が一日15時間で週に6日働きたいと言っても労働基準法の労働時間規制に抵触する。

 

労働契約は対等な労使が締結するという建前になっているが、現実には労使対等などではない。圧倒的優位な立場にある会社が、その立場を利用して労働者に劣悪な待遇を押し付けてきた歴史があり、現在もその名残がある。つまり、労働契約については完全に自由な市場原理をそのまま適用することが甚だしく労働者に不利益となることが自明のことなので、法令等によって規制をかけているのである。あるいは労働者が団結して労働組合を結成して発言力を高めて、労使対等に持ち込もうとした。

 

今、労働規制を緩和して市場原理をもっと持ち込もうとする動きがある。ホワイトカラー・エグゼンプションや解雇要件の緩和や派遣労働の規制緩和等経営者側を利するような労働規制緩和を図ろうとしている。極端な規制緩和論では最低賃金制を撤廃せよ、というものまである。

会社・経営者側の立場に立てば当然のことである。業績が悪化した際に労働者をクビにしやすくなれば人員整理が容易となり、人件費の削減ができる。派遣社員を今より自由に使えるようになりたい(正社員化はしたくない)。賃金を下げやすくして賃金の下方硬直性を克服したい。

これらはあくまで経営者側・会社側の視点である。

僕は労働者であり、当然労働者側に立つ者である。物分り良く会社側の理屈に屈服してはいけない。経営者側が求める労働規制緩和や市場原理を持ち込むことに異を唱えなければならない。経営者や会社側の強欲やエゴを許してはならない。

当たり前の話だが、労働はモノやサービスとは違う。労働は人が行うものである。労働を叩き売りしたり、在庫処分したり、廃棄処分することはできないし、決して許されない。

労働を担うひとりひとりは家庭に養育され、学校で教育を受けて、地域社会で育まれて一人前となる。親や隣人、もっと広くとらえて社会によって作られた存在である。僕たちひとりひとりは社会がコストを負担した社会的存在なのである(僕はこの表現が好きではないが)。

会社はこのような「ヒト」を使って己の利益を上げることのみに血道をあげる存在であってはならない。

会社もまた社会的存在なのである。

会社や経営者は雇い入れた労働者やその家族の生活を保障しなければならないし、生活の質の向上も視野に入れなければならないと思う。

 

労働に市場原理を持ち込むと、労働者の人としての尊厳を侵すことにもなりかねない。

資本主義社会の勃興期に起きた悲惨な労働者の状況を脱するために、労働規制の法整備を積み重ねてきた歴史を忘れてはならない。

 

そもそも、市場原理など絶対の真理ではない。

 

ただでさえ、この社会では劣悪な労働条件に喘ぐ労働者が多いのである。

それをさらに悪化させる虞のある労働の市場原理の導入をもっと問題視するべきである。

会社や経営者の強欲、厚顔無恥を糾すべきである。