希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

社会のレールから外れてみて色々と考えてみた件〈改題・再掲〉

僕はいわゆる真っ当な生き方をしていない。

社会での競争から逃げ出したダメ人間である。

そんなダメ人間の視点から色々なことを考えている。

 

初出 2014/5/20

 

僕は競争社会を否定しない。

社会の活力を生む源は公正なルールの下での競争にあると考えている。人の持つ向上心や上昇志向なども無視できない。

しかし、僕は会社社会の価値観に大いなる違和感を持ってしまったためにアウトサイダー的な生き方を選択することになった。

競争で勝ち続け、社会的地位や信用を得ることに価値を見出せなくなってしまった。

馬車馬のように働き続けることが嫌になったのだ。

 

そこで僕は競争から一歩引いた位置に自分の身を置いた生き方をしてみようと思ったのだ。

そうした生き方をしていて、素朴な疑問が幾つか生まれてきた。ここでは「労働」についての疑問を述べていきたい。

 

以前から問題視されていた長時間労働であるが、一向に改善される気配がない。それどころか、長時間労働を助長させると思われるホワイトカラー・エグゼンプションの導入を政府は画策している。それほどまでにエスタブリッシュメントは労働者を搾り上げたいのだろうか。労働者の生活の質の向上が最重要課題なはずなのに、一向に顧みられることはない。

僕の経験からいくと残業が月に50時間を超えると、職場と自宅の往復のみの生活になるという実感がある。ただ働いて寝に帰るだけの生活が豊かな生活だとはとても言えない。

会社は労働者を奴隷化したいのかと邪推してしまう。

長時間労働はどの国でも資本主義体制が成立した初期から問題となってきた歴史がある。労働運動による権利の獲得や政府の側からすると社会不安を拡大させないために労働時間の規制が図られてきた。長時間労働は百害あって一利なしである。お上(政府)頼みにするだけでなく、今一度労働者側からの働きかけが必要とされている。

 

長時間労働とも関係することだが、なぜ多くの労働者は会社社会の論理に絡め取られるのだろうか。確かにかつては会社に深くコミットメントすることによって給料が上がったり、昇進したりして待遇が良くなっていた。終身雇用でもあった。労働者の受けるメリットが確かに存在していた。

労働者は会社の従属物ではない。

労働は生活の一要素にすぎない。

全生活を全精力を会社での労働に費やすことは異常なことだ。人は生活をするために働くのであって、働くために生きているのではない。

会社への異常なコミットメントはそれぞれの会社の人事労務管理や景気の動向や労働市場、政府の政策だけで解消するものではない。根本にある労働観(勤勉を尊ぶことや勤労が尊いという考え等)が変わらないことには解決ができないものだと思う。

 

長時間労働や会社への深いコミットメントにも関わることだが、「自己実現」すべきだという風潮にも違和感を覚える。自己実現そのものは悪いことではなく、むしろ賞賛されてしかるべきものである。向上心を持つことで、人間的にも成長するし、結果として豊かな人生を歩むこともできる。

ただ、世間一般で言われている自己実現は仕事をすることによってなされるというものだ。その一面は確かにある。しかし、自己実現の美名のもとで、労働者が会社に(あるいはエスタブリッシュメントに)都合良く踊らされていることを忘れてはならない。また、会社での仕事のみが自己実現の場というのは寂しいし貧しいとも思う。

自己実現は仕事だけでのものではなく、趣味や社会活動等でもなされるものである。

さらには、必ずしも自己実現を図らなければならないということはない。自己実現をしなければ実りある人生にはならないという強迫観念はおかしい。マズローの一つの説に過ぎないものを金科玉条とするのも誤っている。あるいは偏狭な価値観だともいえる。

 

僕がこのエントリーでこれまで書いてきたことは、実は真っ当な社会人にとっては当たり前に近い状況のことである。真っ当な社会人は(特に正社員)長時間労働を厭わず、会社にコミットメントをし、常に自己実現を考えている。

つまり、僕は真っ当な社会人ではないことになる。

それはそれでいい。

僕はその事実を受け入れている。

しかし、社会の一般的な価値観からずれた生き方をしている者が、一面の真理を突くこともある。