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希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

かつて不登校をしていた頃のことを書いてみる件

以前のエントリーでもふれたが、僕は不登校の経験がある。小学校5年生の時だ。この学年の半分位はまともに登校していない。登校を再開した6年生のときも1学期の間は午前中で早退していた。完全復活を果たしたのは6年生の2学期からである。

 

なぜ不登校になったのかその理由は今となってはよく分からない。酷いいじめに遭ったわけではない。ただ、ちょっとしたいじめ的なことはあった。僕は当時肉類が全くダメ(今でもあまり好きではない)で給食のメニューで肉が入っていればいつも残していた。小学校1年から4年生までの担任の先生方は柔軟な考え方をしていて別に肉を残しても大丈夫だった。当時は給食を残すことは悪いといった風潮があったのだ。5年生で担任が変わり、そのM先生は給食を残すことを認めなかった。でも、僕は頑強に抵抗して嫌いな肉を食べなかったのだ。M先生は根負けして僕にだけ特例として残すことを認めた。このことが一部のクラスの生徒にとって気に食わず、僕に矛先を向けてくることになった。

結果、僕は心身の異常を来たすことになり、学校に行かなくなった。

 

当時は不登校は「登校拒否」と呼ばれ、一般的な事象ではなかった。レアケースであった。学校に通うのは至極当たり前のことで、通えない者は本人に原因・責任があると考えられていた。

僕の場合は、ちょっとしたいじめが引き金となり、元々組織や集団行動になじめない気質が表出して不登校に至ったと考えられる。

 

学校に行かなくなった当初は両親は鷹揚に構えていた。いつか学校に通うようになると楽観的に考えていたのだ。けれども、その期間が長引くにつれて心配するようになり、僕を心療内科催眠療法家のところへ連れて行くようになった。

僕はといえば暢気なもので、体調の良いときはクラスメートと遊んでいた。僕の家にはよくクラスメートが遊びに来た。その中には僕を責めた子も混じっていた。彼らはごく普通に僕に接してくれた。学校へ行こうなどとは言わない。逆に「ええなあ、学校を休めて」と言う奴もいたりした。

そんな状態が続くうちに、僕は学校へ行ってもいいな、という気持ちになっていった。

僕が不登校から脱することができたのは、心療内科のカウンセリングによるものではなく、友だちの何気ない行動によるものであると確信している。

 

子どもには子どもの世界があり、その中には特有の掟があり、規範がある。自浄能力もある。

ここが見逃せない重要なポイントである。

精神科医や心理療法家などの専門家の援助も必要ではあるが、友人たちによる共助が大きな力を発揮することもあるのだ。

 

ところで担任のM先生だが、僕のことをとても気にかけてくれていた。後日、母がM先生から聞いた話によると、僕を特別扱いすることをしないようにしていたという。特別扱いすると余計に学校に行きづらくなると判断してのことらしい。それと、僕が必ず学校に通うようになると僕のことを信頼していたとも。M先生が担任であったことも僕に幸いしたのは確かである。

 

僕が不登校を克服し、その後紆余曲折はありながらもそこそこ楽しい人生を歩めているのは、運が良かったからだ。周囲の人たちに恵まれていたからである。

 

不登校に至るには様々な原因がある。

ちょっとしたささいなきっかけで不登校になってしまう。現在はさらに問題が複雑化しているのかもしれない。牧歌的だった僕の時代と違ってきているとは思う。

しかし、今も昔も根本のところは変わってはいない。

不登校で苦しんでいる人には、周囲の人たちの支えが大きな力となる。他者への信頼を取り戻すことが大切なのである。

他者への信頼はほんのちょっとしたきっかけで芽生えることが多いと思う。

その「きっかけ」を無理に作り出さずに、日々の生活の中で見つけることが何より大切なのである。