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希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

悪いことをしてもバチはあたらない件

悪いことをすればバチがあたると親や教師から言われた人は多いと思う。

社会のルールを守って、道徳的・倫理的に善い行いをすれば他者からあるいは社会から認められて良い人生を送れると繰り返し刷り込まれてきた。

そして悪いことをすれば必ず報いがあり、悲惨な人生しか送れないとも刷り込まれてきた。

 

しかし、悪いことをすることとバチがあたることの間に「科学的」な「合理的」な因果関係は存在しない。

ちょっと考えれば自明のことである。

逆に善い行いをしても良いことがあるとは限らないし、同様に両者の間に科学的な因果関係はない。

もしも悪いことすれば必ずバチがあたるならば、この国の政治家は皆悲惨な末路を辿ることになる。悪徳な商売をして財を成した連中はすべて不幸になるはずだ。

現実は全くそうではない。

「悪い奴ほどよく眠る」状態になっている。

政治家は相変わらずわが世の春を謳歌し、無責任なままだし、悪徳な商売でカネ儲けに成功した連中もそのとめどない欲望を隠すことなく、さらなるカネ儲けに突き進んでいる。

 

繰り返して言うが、悪いことをすることとバチがあたることに因果関係はない。「迷信」に過ぎないのだ。あるいはそうあって欲しいという願望があるに過ぎない。

この「迷信」はこの社会の多くの人たちに受けいられている。

悪いことをしてもすべての人たちが国家による刑罰を受けるわけではない。法の網から逃れる者は沢山いる。刑罰を受けることなくのうのうと生きている「悪人」が何らかの報いを受けると庶民は溜飲を下げることになる。

また、社会の秩序維持の観点からは、悪いことをすれば何らかの報いがある(刑罰を科せられる以外に)ということにしなればならない面もある。人々の欲望に縛りをかけ、行動を抑制するような何かが必要なのである。

単なる「迷信」が社会規範になるのである。

 

平安時代の人々、特に貴族は殊更に怨霊を恐れていた。怨霊が実在すると信じていたのだ。代表例が菅原道真を祀った天神さんである。

非業の最期を遂げた人はこの世に怨念や未練を残していて、怨霊となって祟ると信じられていた。たとえ「敵」であってもその怨霊を祀ることによって御霊を鎮めることが大事だったのである。

この怨霊信仰もただの「迷信」に過ぎないものである。

しかし、現代に生きる僕たちはこの非科学的・非合理的な態度を笑うことはできない。僕たちもまた「迷信」から完全に逃れられているとはいえないからだ。

 

僕は小心者なのでちょっとした悪いことをしただけでも良心が痛んでしまう。バチがあたりやしないかとビクビクする。

多くの人たちは僕のような精神構造を持っていると思う。

 

実際には悪いことをしてもバチがあたることはない。

しかし、悪いことをすればバチがあたるのではないかという思いを抱いて、自分の行動をコントロールすることには大きな意味がある。

「理性」や「良心」とも大きな関わりがある。

 

「迷信」は侮れない。

「迷信」にも効用がある。

僕たちは昔の人たちと比べて「進歩」していないのかもしれない。