希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

この国は暮らしやすいかもしれないけど生きやすいとはいえない件

この国は表向きはとても良い国だと思う。

一定規模の自治体に住んでいれば便利で暮らしやすい。

電車は時刻表通りに運行されるし、滅多なことでは停電にならないし、上下水道が整備されている。24時間営業の飲食店やコンビニが至るところにあり、店員は礼儀正しくて高いレベルの接客術を身につけている。

僕たちは至れり尽くせりの環境の中で不自由を感じることなく生活ができる。

そういう意味ではこの国はとても暮らしやすい良い国だということになる。

 

ただし何事にも表と裏の顔がある。

消費者としては便利で暮らしやすいが、サービスを提供する側は過剰なサービスを求められ、労働強化に晒されていることを忘れてはならない。安価な商品やサービスを提供するために、働く人たちの給料、つまりコストが極限にまで切り詰められていることに目を背けてはならない。働く人たちは低賃金・長時間労働を強いられ、生活の質が劣化している。

 

この国の根底には「ムラ社会」の遺伝子が受け継がれている。

世間の目を常に気にしなければならない。

組織の論理に従順でなければならない。

人を「ウチ」と「ソト」に区分けし、「ウチ」の人、つまり身内には甘く、「ソト」の人には冷淡である。

人の価値観は多様であるはずなのに、ひとつの型にはめて、その型以外の価値観や生き方を認めずに排除する。また、横並び意識が強いため、突出したり外れたりした人を排除する。

 

この国ではムラ社会の規範に沿って大過なく生きていればそれなりの生活が保障される。ただし、常に世間体と同調圧力に晒されながら。

一見この社会に順応しているようにみえる人たちも、その多くは心の底では息苦しさを感じている。アウトサイダー的な生き方をしている人たちはさらに生きにくいことになる。

 

「暮らしやすさ」とは主に物質的なものだ。貧しい時代には何より暮らしやすさを求めることに合理的な動機があった。今のこの国では高いレベルでそれは達成されている。今以上の暮らしやすさを追求することはムダのように思える。もし、更なる暮しやすさを追い求めていくと、失うものも多いように思う。

それよりも多くの人たちが生きやすい社会を築くことに目を向けることが大切なのではないだろうか。

一朝一夕にこの社会に根付いている風潮や価値観を変えることは難しい。より良いとされる「型」から外れた生き方をするにはリスクが高い社会である。

しかし自分なりの生き方を貫こうとすれば、あえてリスクも甘受しなければならないと思う。このような人たちが増えれば、この社会に築かれた壁を少しずつ壊していけるはずだ。

 

「暮らしやすさ」を多少は犠牲にしても、「生きやすい」社会を求める時期に来ていると僕は思う。

完全なる「自由」など幻想ではあるが、自分が生きやすいと感じられるような生き方や働き方を求める「自由」くらいは認められるべきである。