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希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

教育はカネを生み出す人たちを生み出すためにあるのではない件〈改題・再掲〉

この国は教育談義が好きな人たちが多くいる。

昨今の教育論は早期エリート選抜に見られるように財界の思惑に沿ったものばかりになっている。財界の都合の良い人材を作ることに躍起になっている。教育は財界のためにあるのではない。

初出 2014/2/1

 

今の大学生は僕たちの頃に比べて真面目だと思う。就活の時期が早まり、企業側の選考基準も厳しくなり、相当の準備をしている学生が多くなっている。一方、大学の講義への出席率も高くなっていると聞く。

一部の意識の高い学生などは学生団体を立ち上げて学外活動にも勤しんでいる。部活やサークル活動だけでは就活での武器にはならないらしい。

Wスクールで語学や資格取得の勉強に励む学生も多いという。

 

僕の学生の頃は興味のない講義はサボり、喫茶店に入り浸り友人達ととりとめもない話を延々として楽しんでいたものだ。夜は夜で酒を飲みながら一晩中、語り合うことが多かった。

今の学生も僕たちと同じことをしているのだろうか。

 

大学生の気質がそれほど変わるとは思えない。

就活の質が変わった(学生の負担が増えた)ことにより、学生の行動様式が変化したのだろうと推察される。

 

それにしても経済界の偉いさんたちは身勝手である。

一昔前までは勉強に熱心な学生や自分を持っている学生は不要だと言い放っていた。会社に都合の良い人材に仕立て上げるために、自社で教育すると言っていたのだ。そのためにはなるべく自己の確立していない学生が望ましい。変に学のある学生なんていらない。そのため、特段何も考えずに学生時代を送ってきた学生も多く採用されたのである。ある意味良い時代であった。

近年は経済界は大学側にグローバル人材を養成せよと要望している。会社が教育訓練に要する時間や費用をカットするためである。本当に身勝手で破廉恥な態度だ。

 

そもそも教育は広く捉えれば、社会に有用な人材を養成するためのものである。市民社会の成員として、社会の発展のために己の役割を立派に果たすことのできる人たちを送り出すシステムが教育だともいえる。

何も企業の利益を生み出す人たちを作り上げるために、教育があるわけではない。言い換えれば、会社に従順な社員を送り出すことが、教育の役割ではないということだ。

仮に会社側が従順で勤勉な労働者が欲しいのならば、以前のように自社でコストを負担し、社員教育を徹底すれば良いだけの話である。それを社会の公器である教育機関に転嫁するのは余りにも虫のよい話である。

 

以前のエントリでもふれたが、僕は学ぶことの楽しさや大切さを伝えることが、教育の重要な役割だと考えている。

社会に出ても、常に学ぶという姿勢があれば、あるいは学ぶ態度が身に付いていれば、社会生活を送る上で十分に役立つものだと思う。