希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

失業をしたくらいで、仕事がないくらいで落ち込むことはない件

失業してもどうってことはない。

仕事なんかなくても何とかなる。

こんなことを言うと、真っ当な人たちからは顰蹙を買うだろう。根拠のない暴論で煽るなとも言われそうだ。

確かにシングルマザーをはじめとして働き続けなければ生活が覚束ない人たちも多く存在する。そういった人たちは仕事を失えば落ち込んでいる暇もなくすぐに仕事探しをしなければならない。こんなことはバカな僕でも重々承知している。

 

しかしながら、失業したくらいで落ち込むことなんてないし、仕事がなくても悲観することはない、と僕は思っている。

面白みを感じられないようなつまらない仕事を心身を擦り減らして続けるよりも、一旦リセットした方が精神的にも肉体的にもよいことがある。

どうしても辞められない事情があるならば、仕事は生活費を稼ぐための一つの手段に過ぎないと割り切ることも時には必要だ。

仕事をすることによって成長するとか自己実現を図るなんて、何者かの陰謀・洗脳だという考え方も持つべきだ。勤勉が尊いという価値観を疑ってかかることも必要だ。

 

僕はこれまでに何度も失業を経験してきた。ニート的な生活を送ったこともある。今でも正直なところは働きたくない。

人生を働くことだけに費やすのはバカらしい。

人生の途上で働かないときがあっても良いはずだ。そのときに新たな発見があり、今までとは違った人生観を見つけることもあるかもしれない。

 

とはいえ、失業期間が長くなると精神的に疲弊する。自分は社会に必要とされていないのかと思ってしまう。仕事がないということは、単なる収入面の問題ではなく、社会との繋がりを失うおそれも生じるということだ。自分の「居場所」がないと不安感や孤立感が増してくる。

僕は失業者のコミュニティ、つまり「居場所」があれば良いと思っている(あるかもしれないが)。そこでは交流があり、情報交換があり、何より人と繋がっているという安心感を得ることができる。仕事がない人が寄り集まって何か小さなビジネスを始めてみても面白い。仕事がなければ仕事を創るという発想はとても大切なものだと思う。これは個人でも可能である。ネットでもアナログでもよい。事業化はされていないが、多くの人が必要としている仕事はいくらでもあるはずだ。

 

仕事がなくて遂には生活が困窮したときには生活保護を受給するという手もある。生活保護は国による施しではない。健康で文化的な生活を営む権利が僕たちにはあり、それを保障するための制度である。堂々と権利を行使すればよい。ただし、最低限の生活が保障されるとついついそれに慣れてしまうおそれがある。人は弱い生き物であって、楽な方に流されてしまうものだ。生活保護を受給するのは緊急避難的な一時的なものと考えて、仕事を探す意志を持ち続けることが必要である。いつかは仕事を得て、税金や社会保険料を納めてそれまで得た生活保護費(公費)の幾許かを返すという気概を持つことも大切だ。この程度の「自助努力」は必要である。

 

僕が子どもの頃、周囲には何をして生計を立てているのか分からない人が結構いた。会社勤めをしているわけでもなく、自営業でもない、何らかのナリワイを持って稼いでいる人たちがいたのだ。

また、僕が社労士をしているときにも似たような人たちによく出会った。世間ではそのような人たちをアウトロー(違法なことをしているのではない)とみなすが、色々な稼ぎ方や生き方がこの世にはあるということだ。

一番大切なのは「生きること」「生き延びる」ことであって、何らかの組織に属して働くことはひとつの手段に過ぎない。

 

今の時点で失業していても仕事がなくても、住むところがあり、ご飯を食べることができれば、すなわち生き延びることができればそれでよいと気楽に構えるメンタリティがあればなんとかなる、と僕思う。

楽観的に過ぎるかもしれないが、世の「常識」に雁字搦めになることはない。