希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

本当に自由競争が社会に活力を与えるのかという件〈再掲〉

僕は新自由主義市場原理主義を否定している。

普通の人たちが安心して暮らしていける社会にはならないと考えているからだ。一部の特権階級のみが利益を享受するような不公正な社会はいつの日か瓦解する。その混乱した社会で最も不利益を被るのは庶民なのである。

「普通」に働いて「普通」に生きていける、貧富の格差の小さい社会を目指すべきだとの考えを僕は変えるつもりはない。

初出 2013/12/18

 

僕たちが生活を営んでいる日本の社会は資本主義体制である。かつて、日本は最も成功した社会主義の国であると揶揄されたこともあるが、れっきとした資本主義国家である。

資本主義体制は競争を是とするものである。特に新自由主義的な考え方が幅をきかせるようになってからは、自由競争こそ善であるということになっている。

 

市場において競争に勝ち残った「勝者」が利益を享受し、「敗者」は退場すべきであるという思想だ、端的に言えば。

 

そして「結果の平等」は悪平等で排除すべきものであり、「機会の平等」さえあればよいとする社会である。

その自由競争の結果として、社会全体に活力が生まれるという発想だ。80年代のサッチャーリズムやレーガノミックス以降に台頭してきた考え方である。

 

資本主義、いや新自由主義的な思想やそれに基づいた政策で社会が活性化するのだろうか。

 

僕はそうは思わない。

必要以上の格差を生じさせ、貧困を生み出し、いわゆる普通の庶民が安心して生活できるようになるとはとても思えない。

一握りの「勝者」たちが富を独占し、「敗者」とされた大多数の人たちは苦しい生活を強いられるような社会になる。現にアメリカは中流層が崩壊した弱肉強食の歪んだ格差社会になっている。

 

「自由競争」という言葉は一見聞こえがいい。

既得権を享受する層、世襲で利権を独占する層が幅を利かす社会よりはましだといえる。

しかしながら、実際の日本社会では真の自由競争にはなっていない。既得権者にとって圧倒的有利な「自由競争」になっていて、しかもその果実を世襲によって独占している。

 

競争社会の原則は「機会の平等」を保障することにある。

しかし、現実は競争のスタートラインに立った時点で大きな差がついている。例えばホワイトカラーのビジネスマンになることができるのは、殆どが難関大学の卒業者である。難関大学に入学できるか否かについては、家庭が裕福で社会階層が高い者とそうでない者との間に大きな格差があるという調査結果もある。大学進学や就職だけ見ても、機会の平等は存在しないのだ。「機会の平等」は今の、この社会では幻想に過ぎない。

(僕は大企業の正社員や公務員等になることが最良だと思ってはいないことを付け加えておく)

 

新自由主義的価値観の下で「敗者」とされた人たちは、決して絶対的に能力が劣っていたわけではない。たまたま競争に遅れをとっただけに過ぎない。これらの人たちの生活を圧迫し、劣悪な処遇を放置する社会は活力のある社会とはいえない。


節度が保たれ、機会の平等が保障されてこそ、競争によって個人の資質が上がり、社会も発展する。


自由競争のみでは、決して社会は活性化しないことは明白である。

 

敗者復活の道が用意されていて、かつ多種多様な生き方が認められている社会こそが、活力のある社会だと、僕は思っている。