希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

人事評価なんて気にしすぎるとロクなことにはならない件

勤め人にとって人事は最大の関心事だといっても良い。飲み屋でサラリーマンがする話の大半は人事に関する愚痴である。やれ、誰某が課長になっただの、同期の誰某が一番出世だの、生産性のない話を延々と続けている。

人事について語ることが苦にならなければ、その人は目出度く「会社人間」の仲間入りを果たすことになる。

けれどこの人事の愚痴がサラリーマンの良いガス抜きになっている点は否定できない。

 

僕も短期間ながら組織人として働いていたが、やはり自分の処遇は気になった。僕は上司に反抗的な態度を取ったがために、最も行きたくない部署に飛ばされた経験をもつ。

人事評価とは所詮は人が人を評価するものであって、そこに客観性や公正さを求めるのは無理があるように思う。ある人への評価に好き嫌いや相性という主観的な要素が入るのを排除することは難しい。たとえすべての要素を数字に置き換えるような機械的なシステムを採り入れても、最終的には評価者の主観が入り込む。

 

人事評価なんて所詮はその程度のものなのだ。

ある一つの組織が、その組織の物差しによって人を評価するものに過ぎない。

公正性や客観性に疑問符がつく相対的なものに過ぎない。

人の持つ様々な面のうちのほんの一部を評価するものであり、人間としての価値を決めるものでもない。だから、人事評価が高いからといってその人が人間として優れているわけではないし、逆に評価が低いからといって人間的に劣っているわけでもない。この国の会社の人事評価基準が属人的なものが主であるとはいえ、あくまで会社組織の中である人の一部分を切り取って無理やり評価しているだけのものである。

 

僕は以前のエントリーで公務員時代に配属された部署が働かない中高年職員の巣窟だったことを書いた。当時は仕事の量が僕の半分以下のそれらの職員が僕の倍以上の給料を得ていることに不満を持ち、絶対におかしいと考えていた。年功賃金などクソ喰らえだ、能力主義にしろと思っていた。

しかしながら、今はこの考え方が若気の至りだったと感じている。

出世を全く考えず、人事評価など屁みたいなものだと開き直れば、そこそこの収入が確保され有給休暇もしっかり取得でき、残業も少ないという働き方ができて、それもまたありだなと思うようになった。最もそのような人たちの(出世しない公務員の)給与額の水準はもっと下げるべきだし、民間企業ではリストラの対象となる可能性もあるだろう。

出世のラインから外れた中高年サラリーマンの処遇方法として、ある程度の年齢・年収に達すると昇給をストップして、熟練したスキルと意欲があるという条件のもとで安定した雇用を保障する(定年までの雇用保障)という人事システムを採り入れることも一考の余地があると思う。

 

人事評価にこだわりすぎると、会社・組織に完全に従属することになりかねない。

自分の生き方や働き方が会社・組織の論理に絡め取られて、自律的な生き方ができなくなる。

 

人事評価など、どれほどのものだと、好きなように勝手に評価していろ、と冷ややかに距離を置く態度も時には必要だと僕は思う。