希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「貧乏」と「貧困」は似て非なるものという件〈再掲〉

初出 2013/11/21

 

いきなりで恐縮だが、僕は貧乏である。

ずっと貧乏なわけではないが、断続的に貧乏生活を続けている。ここ数年は正社員として勤めている期間以外は、常に金欠の状態である。ただし筋金入りの貧乏というわけではない。ちょっとだけ羽振りの良かった時期もある、これでも。

 

僕は歳を取るにつれて、ますます勤労意欲が低くなり、ちょっと小金が貯まると仕事を辞めてしまう。流石にこの歳(40代後半)になると、再就職はかなり厳しい状況である。今は派遣社員として肉体労働(ただし楽な仕事)に従事し、その日暮らしをしている。今の仕事はほとんど単純労働だが、結構楽しんでやっている。僕は実家に寄生している身で、少しばかりの生活費を母に渡し、あとは本代・携帯電話料・煙草・ネット代にカネを使うのみで、生活費はあまりかからない。お気楽な、楽しいビンボー生活を送っている。

 

このように「貧乏」生活を送っていたとしても、僕のようにあまり悲壮感のない場合もある(他人からみればどうなのかは分からないが)。それは「貧乏」な状況が一時的なものだと思い込んでいるからであり、いつかはカネも僕のところに廻ってくると楽観的に考えているからである。それと、僕には人や社会とつながりがあり、孤立していないからだ。

 

「貧乏」とよく似た言葉に「貧困」がある。「貧困」に陥ると、状況はいささか厄介なことになる。貧乏も貧困も、一言でいえばカネがない状態を指すのだが、両者は似て非なるものである。

 

「貧困」に陥った人は、まず人や社会とのつながりが断たれ、孤立している状態にある。自助努力だけではどうにもこうにもならない状態であるといってもよい。さらには、社会から孤立しているので、友人・知人、親族からの助けも期待できない。生活保護を受けようにも、働ける歳であれば、福祉事務所の窓口で「水際作戦」に遭って追い返される可能性が高い。それ以前に生活保護制度を知らないか、知っていても自分が該当することに気付かないケースもある。最悪の場合、孤立死(餓死)という事態に陥ることもある。

 

僕のようなお気楽貧乏人は放っておいても構わない。「もうちょっと頑張れよ」と、自助努力を促してみるのも結構だ。

しかし、「貧困」に陥った人を助けるためには、周囲の人間が手を差し伸べなければならないし、ケースによっては生活保護制度をはじめとする公的扶助に頼らなければならない。しかし、上述したように、貧困状態にある人は孤立していることが多い。まずは人や社会とのつながりを甦らせて、徐々に自立へと誘うことになる。

生活相談や生活支援を行うNPOや団体はあるにはあるが、まだまだ数は少ないし、それぞれの支援組織の財政基盤は脆弱である。月並みな意見ではあるが、公費の補助を増やし、寄付の文化が広まることが重要であろう。

 

僕は支援や相談を受ける場だけではなく、心が安らぐ居場所を創ることが最も大切なことだと思う。社会とつながり、人と触れ合う、そんな場があれば、人は生きていける。

僕はいつの日かそんな場を創りたいと、密かに思っている。