希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「~しなくてもいい」ことが増えると楽に生きていける件

社会に出るとやるべきことが段々と増えてくる。

勤めている会社ではイヤと言うほど仕事を与えられる。

いい歳になればパートナーを見つけなければならない。そして、結婚制度という檻の中に誘われる。結婚すれば子どもを望まれる。

このように僕たちはしなければならないことばかりが積み重なってきて、いつの間にか身動きの取れない状況になっている。

 

僕はいつも考えている。

「~しなくてもいい」ことばかりになるとどんなに楽しいだろうと。

「結婚しなくてもいい」

「出世しなくてもいい」

「マイホームを買わなくてもいい」

「正社員でなくてもいい」

「立派な大人にならなくてもいい」

極め付けは「働かなくてもいい」

と、まあ考え付いたことをつらつらと書いてみたが、こんなことを真顔で言うと「真っ当な大人」たちからは渋い顔をされ、説教されてしまうのがオチである。極端な話、社会から抹殺されてしまうかもしれない。抹殺はされなくても、「無能な人」「役立たず」とのレッテルを貼られる可能性は高い。

 

しかし、なぜこれほど「~しなくてはならない」ことが多く、しかも増え続けていくことに皆は疑問を持たないのか不思議でならない、ダメ人間の僕からすると。

思い返せば学生生活は「~しなければならない」ことを常に課され、いかにそれらを受け入れているかのトレーニングの場だったような気がする。社会に出て、会社に勤めた場合は言わずもがなである。仕事の場以外の私生活の領域でも「~しなければならない」ことばかりである(結婚がその典型である)。

「~しなければならない」ことをクリアしてこそ、真っ当な人間だと世間から看做されるのだ。社会の同調圧力に耐えてこそ、一人前の大人として迎え入れられるのだともいえる。

この社会においての常識であり掟なのである。

 

けれど、常識をいつもその存在が当然のものだとしてやり過ごしていると、発展も進歩もない。

「~しなくてもいい」ことを追求することを「悪」とする常識・価値観等を覆すのも大いなる進歩(大多数の人たちは退化と考えるかもしれないが)だと僕は思っている。

巷では「生き方の多様化」が言われているが、「~しなければならない」ことばかりを押し付けてそれが半ば常識となっている状況では、それはただのスローガンに過ぎない。

例えば、無理してまでも働かなくてもいい、と考えている人がいれば、その人の生き方や価値観を認めるような土壌が社会に存在してこそ、多様性のある社会になるはずだ。

 

「~しなくてもいい」ことが増えれば、楽に生きていける。

自分が不必要だと思っているしがらみからも自由になれる。

世間の目ばかりを気にしていた窮屈さからも逃れられる。

 

世間が是とするレールから逸れた僕からすれば、「~しなくてもいい」ことをひとつひとつ積み重ねるように増やし続けることは、自分の人生を豊かにすることに繋がっている。

たとえ世間の冷たい目に晒されようとも、この生き方を変えることはない。