希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

自力で生きることが困難な人たちを助けるのは「甘え」なのかという件〈再掲〉

僕はこのブログで記事を書くときには統計やデータを載せないようにしている。また、統計だけを基にした記事も書かないように留意している。

統計やデータからは恣意的な結論が導き出される虞があることと、いわゆる「数字のマジック」が存在するからだ。

しかし、この記事の元になったデータについてはその信憑性を度外視してもこのテーマで記事を書かなければならないとの思いにとらわれた。

人生において立ち直ることが困難な状況に陥った人たちに対して「自己責任」だと突き放すことが是とされるような社会は絶対に病んでいる。

初出 2014/1/16

 

ある調査で生活が困難な人たちを国は助けるべきではない、と考えている人の割合が日本では38%にも上るとの結果が公表された。この数字を見て僕は衝撃を覚えた。

なんと冷たい社会なのだろうと。

資本主義の権化ともいうべきアメリカでさえ28%、拝金主義が蔓延っている中国でも、その数字は10%前後である。他の先進国でも軒並み低い割合であった。

それらの国々では、競争社会を是としながらも、何らかの理由で競争から脱落し、生活が困難になった人たちに対しては国家による生活保障が必要不可欠だとのコンセンサスが存在している。

翻って、日本社会では生活困窮者に対する国家による生活保障は不必要だと考えている人の割合が高く、それらの人たちは生活困窮者を切り捨てても止む無しとしている。つまり、国に頼るのは甘えで、野垂れ死にしても仕方がないと考えているのだ。

 

繰り返して言う。

なんと不寛容で冷たい社会なのだろう。

 

他方で、この国では「お上」信仰がまだまだ残っていて、「お上」頼りのメンタリティが根強く残っている。

おそらく、こういう心情なのだろう。

自分が困ったときは政府や役人(お上)に助けを乞うが、他人が困っているときには、お上頼みは許せない、と。

究極の利己主義である。

元来、困っている人を助けること、困った者同士が助け合うことは美徳だったはずである。その美徳はもう過去の遺物になってしまったのだろうか。

 

生活が困難な人たちに対して、自助努力が足りない、自己責任だと放言する人たちが少なからず存在する。そういう人たちは、自助努力ができない状況にある人たちがいることを理解できないし、想像すらできないのである。

また、そういう人たちは自分がうまく生きているのはたまたま運が良いだけだと気付いていない、人生何が起こるか分からないことに思い至らない能天気なバカである。

 

生活が困難な人たちに自己責任論を押し付け、自助努力を過度に強いるのは、その人たちを追い込み、余計に自立を阻む壁になっていることも考えてみるべきだ。

 

資本主義の下では、特に新自由主義的な考え方では、生活保護をはじめとする社会保障費を社会のコストとして捉える。そして、カネを生まないような社会保障のコストなど削減してしまえという話になる。

社会的強者による、人間性の欠片もない不遜な論理である。

人の健康的で安定した生活の営みを保障することをコストとしてしか看做さない考え方は異常である、と感じられない感覚に陥っていることを見直してみることが必要である。

 

社会保障はより良い社会を築くための必要な「投資」だという視点を持つべきなのだ。

セーフティネットをきちんと張り巡らせてこそ、人は安心して暮らせるのは自明のことである。

一時的に生活が困難になっても、一定の生活水準が保障されれば、自立・再起も容易になる。そうなれば、税収も確保できるし治安の維持にもなり、ひいては国家の安定・発展にもつながる。

 

国が生活困窮者を扶助するのは、決して「施し」ではない(未だにこのように考える人がいるが)。国家の成員として享受する当然の権利である。

この当然の権利を受ける人たちに対して、甘えだの自己責任だの自助努力が足りないなどと言い放つ人たちの精神構造こそ救いようのない偏狭なものなのである。