希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

潔癖になりすぎると、実は恐ろしいことになるかもしれない件

抗菌グッズや除菌グッズが世の中に氾濫している。清潔さを保つこと自体は良いことだが、それが度を過ぎると病的に感じてしまう。手を何十回も洗わないと気が済まないとか、電車の吊革が持てない等というある種の神経症的な人たちが増えているのも問題だ。

 

僕はこのエントリーで物理的なものではなく、精神的「潔癖症」について述べていこうと思う。

 

精神的な潔癖症とは、一言で言えば異端やアウトサイダー的な人たちを排除し蔑視する心理状態を指す。自分の価値観や常識に合わない人たちやその人たちが有する価値観を認めないという狭量さのことである。

潔癖な人たちが多数派になった社会は(潔癖症的社会と名付けよう)、生きにくい社会であることは容易に想像できる。現在のこの社会は、潔癖症的社会に限りなく近づいているのではないかと僕は思っている。

ニートフリーターへのバッシングは最たる例であろう。正社員として定職に就いて自立することが人として当然だという価値観を何人にも押し付ける。傍から見るとフラフラとして生き方が定まっていないニートフリーターを許せないし、まるで異物を見るような感覚でそれらの人たちの行動様式を批判するのである。

ホームレスに対しては、物理的な面だけではなく、精神的に「汚いもの」と感じ嫌悪感を抱き排除するに至る。ホームレスになったのは自助努力の欠如だとか、自己責任だと突き放し、ホームレスを生み出す社会構造の歪みには目を向けず、「潔癖」な自分の価値観のみで判断する。生活保護受給者に対するバッシングも同様である。

 

ヒトラーナチスドイツはおそらくかなりの潔癖さを有していたと考えられる。その潔癖さゆえに異物であると捉えたユダヤ人やロマの人たちや障害者たちをガス室送りにしたのだ。ヒトラーナチスにとっては自分たちこそが潔癖で至上の価値を有する存在だと考え、自分たちの価値観あるいは美意識に反する人たちは抹殺しても良い存在だと考えていたのである。

 

ヒトラーナチスのケースは極端なものかもしれない。しかし、程度の違いこそあれこの社会でも特定の人たちを異端視し排除し続けてきた歴史がある。被差別部落の人たちを「穢れた」存在として謂れのないを差別してきた。ハンセン病患者たちを隔離収容し、偏見を助長させ、想像を絶する程の差別を続けてきた。これらの差別は「ケガレ」がキーワードになっている。潔癖症的社会では「ケガレ」は最も忌み嫌われるものである。この「ケガレ」は実体のないものであり、人の心の中に巣食う観念論的なものである。だからこそ始末が悪いのである。

 

潔癖さは異質なものを排除しがちになる。

清濁合わせ呑むくらいの度量が時には必要だ。

現在、よく重要だと唱えられている多様性は、潔癖症的社会とは親和性が低く相容れない。

 

社会は猥雑なものに満ちている。

また、そのような社会でないと発展性もないし、何より面白みがない。

 

潔癖症的社会になるということは、亡国への道だと感じているのは僕だけなのだろうか。