希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

僕の考える自由についての件

古今東西の数多の哲人・賢人が自由とは何かについて論じてきた。自由とは人が生きていく上で至上の価値だという論もあれば、自由なんて幻想に過ぎず人はしがらみからは逃れ得ないという説まであって実に幅広い。

 

僕たちは地縁・血縁のしがらみの中で生きている。自分の属する共同体の規範に縛られて生きている。昔に比べてこれら共同体のしがらみや束縛の度合いは少なくなってきたとは言われるが、完全に逃れられているわけではない。

 

僕たちは本当に「自由」を欲しているのか疑問に思うことが度々ある。

自由であることが幸せに繋がるとは必ずしも言えないのではないかと考えてしまうこともある。

何より、「自由」であるとはどういう状態かが実はよく分かっていない。人それぞれで自由の捉え方が異なるのではないだろうか。

不自由さの中での自由もあるし、自由の中での不自由さもある。こうなると、何が何だか分からなくなってしまう。

 

僕は僕なりの自由に対する考えがある。

独善的で独りよがりな考え方かもしれないが、僕が今まで生きてきて辿り着いた心境である。

僕が考える「自由」とは自分の価値観に従って生きていけるかどうかというものである。

自分の価値観が反映される生き方を選択しているか、あるいは選択できる状況にあるかを重く見る考え方である。

 

僕自身の例をあげて述べてみる。

 

僕はずっと会社人間的な生き方、会社=社会という考え方、労働至上主義的な価値観に強い違和感を抱いていた。

従って、僕が持つ価値観とは、労働は人生の一部に過ぎず人生の大半を労働に費やすのはイヤだということ、会社社会の論理に絡め取られることを拒否すること、そして人生をトータルで楽しむ、というものになる。これらの条件を満たす生き方ができれば、僕は自由なのである。政治がどうとか、社会システムのあり方等は副次的なものとなる。

僕は自分なりの自由を追い求めて、色々と働き方を模索してきた。やはりというか、業種や職種を問わず正社員として勤めることは長続きしなかった。非常勤の専門学校の講師、社会保険労務士として自営(フリーランス)してみたが、こちらは結構長続きした。専門学校の講師は社労士業が忙しくなって辞めた。それと専門学校の講師という仕事の需要が激減したのも関係している。社労士業は売上げの減少と将来性を危惧して廃業した。両者とも僕の考える自由な生き方に近いものだった。ただ、現実問題として経済的な安定には程遠い状態だったが、「自由」であることを感じられる働き方であり生き方であった。

今は比較的安定した非正規雇用(期間の定めのない雇用契約)で働き、残りの時間を読書や喫茶店巡り・古書店巡り、このブログを書くことにあてていて、「わりと自由」な状態である。非正規雇用の働き方を選択したのは、働きすぎないことを最重要視したからである(正社員で採用されるのが難しいという理由もあるが)。

 

僕の「自由」の考え方に則ると、組織に従属して生きることに価値を置く人たちにとっては、会社人間的な生き方は自由であることになる。

要するに自分が納得できる(完全とはいかなくても)状況に身を置くことができれば自由となるのだ。

人の価値観は変わることもある。

そうなればどんな状態が「自由」であるかも変わってくる。

僕の考える自由は相対的なものなのである。

絶対的な自由とは幻想に過ぎないものだと考えているからだ。

 

僕は「自由」を至上の価値だと考えることに危うさを感じている。

ならば、相対的な自由あるいは「限定された自由」を謳歌することでもよしとすれば十分だと僕は思っている。