希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「自助」だけで人は生きていけないし、そんなに立派なことかと疑問に感じる件〈再掲〉

僕は過度の「自助努力」の押し付けを愚かなことだと考えている。

他者に自助努力を強要すると、自身は思考停止になってしまう。

不毛な行為だとも言える。

 

初出 2013/12/10

 

時期によって変動はあるが、相変わらず「自己啓発」はブームである。手を変え品を変え、色々な著者・著作が登場し、人心をかき乱している。

僕は自己啓発物は苦手(というか嫌い)なので、購入してまで読もうとは思わない。ただ、時たま魅力的なタイトルやキャッチコピーにつられて、立ち読みをすることはある。しかし、一読して「ああ、俺には合わへんわ」と独り言を呟き、その本を棚に戻すのである。

 

この手の著作の述べていることはほぼ共通している。高い意識を持ち、日々努力を惜しまず、前向きに生きるなどなど、つらつらと書かれている。そして、「自助」の精神を持つことが尊いという結論で終わる。「自助」努力こそが素晴らしい、「自助」の精神を忘れたものに未来はないと。

 

本当に「自助」の精神は、手放しに賞賛されるべきものだろうか?

 

僕たちが生きていくうえで、ベースとなるのは「自助」努力だということは認めよう。この世知辛い世の中、己の身は己で守るという気構えは必要である。

しかしながら、生きていると予期せぬ、不可抗力な出来事に遭遇することが多々ある。時として、生き続けるのが辛いなことや、自分一人の力では立ち直れないような困難にぶつかることもある。こういった事態に陥れば、両親・親戚・友人知人・隣人などの力を借りることが必要になる。「共助」「互助」によって、絶望に瀕した人を救い出すのだ。それでも難しいときは、国や地方自治体の制度によって救済を図る。これを「公助」という。生活保護制度や社会保険制度などが代表的なものである。

 

本来は、「自助」「共助」「公助」それぞれがバランスよく、お互いに補完しながら、困難に直面した人たちを救済すべきものだ。しかし、今の世の中、あまりにも「自助」努力を強調しすぎているように思われる。

 

自己啓発本を書いている著者の殆どは、有名大学を卒業し(留学していたりもする)、大企業に入って成功するか起業して成功している人たちである。その人たちが成功した要因は、環境に恵まれ、人に恵まれたからだ。たまたま運が良かっただけなのかもしれない。決して「自助」努力のみで成功したわけではない。

 

自助努力こそが尊いという考え方が世の中の隅々まで浸透すると、生き難い、寛容でない社会になってしまう虞がある。途方に暮れた人に対して、「努力が足りない」だの「甘えている」などの言葉を浴びせかけ、その人がなぜ困難に直面しているのか根源的な問題から周囲の人たちが目を背けることになってしまう。隣人に無関心でいることの免罪符になる。自助の過度な押し付けと「自己責任論」とは同根のものであるといってよい。

また、「自助」のみが強調される社会は、実は国家にとって都合の良いものなのである。日本国憲法に規定されている「生存権」を引き合いに出すまでもなく、国家は社会保障制度を整えて、人々が健康で文化的な生活を営めるようにする責務がある。先進資本主義国として最低限の責任である。

本音として日本のエスタブリッシュメント社会保障にカネを使いたくないのだ。公助を担う責任を果たしたくないのだ。自助が強調され、自助が尊いものだというコンセンサスがある社会になれば、まさに願ったり叶ったりだ。

 

「自助」は人それぞれの置かれた環境や能力によって、自分のできる範囲でなされればよいものである。

他人に強いるものでもない。