希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

精神論がはびこる社会に未来はないという件

僕は精神論が嫌いである。

思いの強い者が勝つという神話、やる気のある者が無条件に高評価を受けるなどということは、一見尤もに思われるが、全く非合理であるように思えてならない。

合理的思考が何事にも優るとは思わないが、度を越した精神論・精神至上主義は弊害の方が大きいと思われる。

 

働き方や仕事の評価等に精神論を持ち込むとろくでもないことになる。

「汗水流して働くことが尊い」「やりがいのある仕事をするべきだ」などという言説が尤もらしく流布されているが、これらは労働の本質から目を背けたものである。

労働、特に賃労働は会社と労働者が労働契約を結んでなされる「契約」なのであって、そこに精神論が入り込む余地はないはずである。労働者は契約内容に則って義務を履行すれば良いだけの話である。しかし、仕事にやりがいを持てだの、夢や希望を仕事の中に見出せなどという会社が多い。確かにやりがいや夢・希望は人が生きていく上で大切なものだ。これらは労働者が求めるのならそれでいいし、別に求めないのならそれでよしとすべきものである。会社が一方的に押し付ける筋合いのないものである。精神論や綺麗ごとを並べ立てる会社にブラック企業が多いのも頷ける。やりがいや夢や希望の搾取を行って暴利を貪るという魂胆なのである。

また、頑張った人や意欲のある人が報われるシステムが正しいという言説は一見正しいと思われるが、その適用基準が曖昧で恣意的なものになるという危険性が存在する。つまり、会社にとって都合の良い運用になるおそれがある。会社に従順で隷属する者のみを重宝し、そうでない者を冷遇し排除することにつながりかねない。

頑張りや意欲を評価の一部にすることに異論はないが、その比重が重くなると悪しき精神論が跋扈する土壌が出来上がる。際限のないノルマを課されたり、いくら頑張っても頑張りが足りないと叱咤されたりして、結果として長時間労働や労働強化につながることになる。

仕事や労働に精神論や精神至上主義が持ち込まれると、労働者の管理強化や処遇の劣悪化になりやすいということを忘れてはならない。

 

悪しき精神論の象徴が先の大戦の指導部、特に軍官僚であろう。戦争前に対英米戦必敗という研究・分析結果か出ていたにも関わらず、それを無視して勝算のない戦争に突き進んだ(猪瀬直樹著『昭和16年夏の敗戦』に詳しい)。陸海軍ともに国際協調派や親英米派の人たちを左遷や退役に追い込んで、異論を封じ、ゴリゴリの精神主義者たちが実権を握った。これらのことについての反省がなされているのか甚だ疑問である。

 

精神論をすべて否定することが僕の本意ではない。時には精神論的な要素が状況を変えることもある。

合理的思考と精神論のバランスが大切なのである。

 

精神論をぶつことは誰にでもできる簡単なものである。物事の結果を、「お前の頑張りが足りないからだ」と本人の責任に転嫁できる。

行き過ぎた精神論は悪しき自己責任論にもつながる。

精神論が幅を利かせる社会は、社会的弱者をバッシングし排除する不寛容なものとなる。

精神論はエスタブリッシュメントや社会的強者にとってはとても都合の良い代物である。為政者の無策・無能の免罪符にもなる。

 

精神論がはびこる社会に明るい未来があるのか、僕は悲観的に考えている。