希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

怠け者や怠けることを罪悪視するのはやめようという件

勤勉至上主義的な価値観が支配するこの社会では怠け者は排除されたり異端視されたりする。怠けることは許されないという風潮が正しいものとして社会に受け入れられている。

 

確かに人が皆怠けると社会は回らなくなるし、社会システムが壊れるのは事実である。経済活動は停滞し、豊かな生活を送ることができなくなる。国力も衰退する。したがって、エスタブリッシュメントは勤勉が最も至上な価値だと僕たちに押し付けて、勤勉な者は人間的な価値が高いという一方的な人間観や労働観を根付かせようとする。いわゆる普通の人たちの大多数もその価値観を抵抗なく受け入れ、怠け者を糾弾する片棒を担ぐことになる。

 

果たして怠けることが、怠け者であることはそんなに悪いことなのだろうか。

人から責められるほど罪深いことなのだろうか。

人はそもそも本質的に勤勉なのか否かは分からない。

 

アリは働きアリと働かないアリに分かれるが、その集団から働かないアリを取り除いたら、元々働きアリの中から働かないアリが生まれるらしい。

アリと人間を同一視するのは無理な点もあるが、このアリの話は人間の社会にもある程度適用できるのではないかと思われる。

ある集団や組織の成員がすべて勤勉で働き者となることはあり得ない。一所懸命働く者もいれば、サボりがちな者もいる。サボる者を全員クビにしても、その状態は変わらない。このことは昔から人事労務管理に関わる人たちにとっての常識のようなものであった。だから、生産性の低い者をリストラしても、必ずしも組織(会社)全体の生産性は向上しないという現象が多々見られるのだ。

組織や集団は多様性を必要とするし、働かない者の存在はその組織や集団を潤滑に運営するために必要なものだと考えられる。

怠け者がいることで、この社会システムが円滑に回っているという側面もあることを忘れてはならないことだと思う。

 

怠け者は一つの個性だと考えられないだろうか。皆が皆働き者の社会は息苦しく感じられるし、寛容さがない閉塞したものになる。怠け者に対しては積極的に経済的支援は必要ないと思うが、その存在価値は認めるべきだと思う。

ただし、精神の病等で「怠け者」にならざるを得ない人たちに対しては支援は必要不可欠である。

 

ずっと怠け者でい続けるか、ある時点でそうでなくなるかはその人次第である。

僕はある時期は勤勉に働き、怠け者の時期もあるという働き方もありではないかと思っている。世間のしがらみから離れて、ボーッとして生きる期間があっても、長い人生の中で損はないと思うのだが、どうだろうか。特殊な例だとは思うが、アーティストが制作を離れて休養期間を作って、またその後に旺盛に制作活動を行うことがある(この場合、休養を怠けているとはみなされない)。

 

僕は世間から怠け者と見られている人たちの中にこそ社会を変えるような力が蓄えられていると密かに思っている。怠け者や変わり者と言われている人たちのパワーは決して侮れない。

 

堂々と怠けることができる社会になれば、かなり生きやすくなると思っているのは僕だけだろうか。