希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

天才や英雄が幸せだとは限らない件

僕のような凡人は天才的な人物や英雄たちの活躍ぶりを目にしたり耳にすると、その凄さに心を打たれると同時に己の不甲斐なさや普通であることを嘆きがちである。

同じ人間なのになぜこれほどまでに差がついてしまうのだろうかと。

 

歴史に名を残す天才や英雄でなくても、例えば芸能界やスポーツで活躍している人たちに羨望の眼差しを送ることも多々ある。自分に卓越した才能があれば、今よりも素晴らしい人生が待ち受けていたはずだと想像してしまう。他者から賞賛を受け、経済的に豊かになり、社会的な地位も高くなり名声を得ることで、幸せな人生を歩んでいけると考えてしまう。

 

しかしながら、歴史を振り返っても、僕たちの見聞きする範囲で考えても、必ずしも天才的な人物が皆幸せな人生を送っているとはいえない。画家のゴッホなんかは典型的なケースだろう。生存中は殆ど作品が売れずに、生活は困窮を極め、精神にも異常をきたした。ゴッホの作品が高い評価を得るのは彼が死んでから後のことである。

このようなケースは枚挙にいとまがない。

天才であるがゆえに周囲や社会と軋轢を起こすことが多い。凡人は天才を理解できないのだ。生きた時代と自分がマッチしないこともあるだろう。時代が天才に追いつかず、早く生まれすぎたようなケースも多い。

僕の好きな漫画家につげ義春がいる。『ねじ式』『ゲンセンカン主人』『無能の人』など独自の世界観を描いた稀有な漫画家である。彼の才能は一部では評価されていたが、必ずしも商業的な成功には結びついていなかった。つげ義春の半生は貧困との戦いであった。作品を発表している時も経済的には恵まれずに、次第に精神が不安定な状態になる。ただ、皮肉なことに彼が作品を発表しなくなってから再評価され、多くの作品が刊行されるに至り、映画化されたりもして恐らく経済的には恵まれた状態になったのだと推察される。

僕がつげ義春を知った当時、これほど才能に恵まれ、優れた作品を発表しても、経済的に恵まれず、社会に受け入れられず、精神的に追い込まれることもあるのかと暗澹とした思いを抱いた。

つげ義春の人生が不幸だったとは一概にはいえないだろう。しかし、彼の有する才能が十分に報われたのかどうかは疑問である。

 

僕は何も天才が不幸になりがちだということを強調したいのではない。天才と目される人たちで幸せな一生を送ったケースも多い。

幸せになることと才能の相関関係は薄いのではないかと僕は考えている。

幸せかどうかを判断する基準は実に曖昧だ。かなり主観的な要素が強いからである。経済的に豊かになるかどうかが一つの指標にはなるが、絶対的なものではない。社会的な地位や評価、名声を得ることも同様である。

 

天才や英雄たちの残した足跡・実績と幸せな人生を送ったか否かというのは、別次元の話なのかもしれない。僕のような凡人の尺度で、天才たちの価値観や人生観等をはかることは無理があるのだろう。天才や英雄は自分たちの人生が幸せかどうかなんて二の次で、自分たちのなすべきことを最優先に生きていたのだとも考えられる。

 

僕は自分に特別な才能がないことに砂を噛む思いをしてきた。

でも、今は凡人は凡人なりの幸せがあり、生き方があると考えられるようになってきた。

非才ではあっても、非凡となることができるかも、とも考えている。