希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「人生は楽しむためにある」ということが蔑ろにされている件

当たり前の話だが、人は生きていると楽しいことにも辛いことにも出くわす。

人生は「苦」の連続であり、それを乗り越え続けて人格の陶冶となる、という「人生道」的なものが広く受けいれられているのが日本社会である。

真っ当な人生とは、仕事に打ち込み、配偶者と子を得て子を育て上げ、自分の家を持つことだという考えも根強く残っている。

 

この社会で尊ばれるのは「アリとキリギリス」のアリの生き方なのだ。自分の欲望を強く抑制し、自由よりも規律を重んじ、勤勉であることが良き社会人であるとされている。

集団への帰属意識が強く、集団あっての自分というメンタリティも特徴である。会社人間が多く生まれる土壌がある。

このような社会では世間の同調圧力や規範に強く束縛された生き方になってしまう可能性が高い。世間の目や社会規範から逸脱した生き方をする人たちは異端視され排除される傾向にある。極端な表現を用いれば、自由を追い求めることは「悪」だとされてしまう。世間様に顔向けできる生き方、規範に則った生き方が優先されて、自由は付属品的なものとなる。

 

欧米では「人生はエンジョイするもの」という価値観が優勢である。宗教的規範や社会のルール等から著しく逸脱しない限り個人の自由が尊重される社会である。僕は欧米の価値観が日本のそれよりも正しくて優れたものだとは決して思っていない。しかし、楽しんでこその人生、という考え方については大いに肯けるものがある。

 

人生を楽しむということは、楽をするとか怠けて働かないことを意味するのではない。生活を楽しむということに価値を置き、それが侵害されるような働き方をしないというようなことを意味する。日本のような労働至上主義や勤勉教に洗脳された会社人間的な生き方ではない。

働くときには目一杯働くが、仕事以外のことに興味が移ればそちらに精力を傾けたりする。社会活動や趣味活動をするためにリタイアしてもよい。リタイアとまでいかなくても、自分の時間が確保できるような働き方を選択することもある。人生の中で、仕事はそのほんの一要素に過ぎないと考えている。

 

この国で人生を楽しんでいこうとすると様々な障壁や軋轢に遭うことがある。真っ当な生き方ではない、現実から逃避しているだけだと非難されたりする。多くの人たちは自分はガチガチに縛られた苦しくつまらない人生を送っているのに、人生を楽しむとは何事だと考え、自由に楽しんで生きている人の足を引っ張りたいのである。

 

人生を楽しむということはそれほど難しいことではない。この社会で当たり前だとされている価値観を少しだけ疑ってかかり、自分が心地よいと感じられる生き方はどういうものかを改めて問い直して、その生き方を実践すればいいだけの話である。いざ実行するとなれば、社会的地位を失ったり収入が減ることもある。この副作用をどうとらえるかはひとりひとりの人生観による。「人生は楽しむためにある」という考えも一つの価値観に過ぎず、決して至上の価値ではないのだから。

 

僕は世間や他者から何と言われようとも、人生を楽しんで生きていこうと思っている。