希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

なぜカネを稼ぐことに血眼になるのか疑問に思う件

僕たちが生活を成り立たせるためにはカネが必要である。至極当たり前のことである。

自給自足の生活を営むのは困難である。やはり何らかの手段でカネを手に入れて、商品やサービスを購入することになる。

通常、カネを手に入れる手段としては僕たちは働くことになる。カネを稼ぐという行為は、生活を営むための手段であり、カネを稼ぐこと自体を目的にすることは何だかおかしいことのように僕は思っている。

生活に必要な分だけのカネを稼げば十分なはずなのに、僕たちは時としてカネ儲けに血眼になってしまう。自分の人生を全うするときにはカネはゼロでもいいはずなのに、それでは満足できない。あの世でもカネは物を言うのだろうか?でも、カネをあの世には持っていくことができない。

 

カネには人を惑わせる魔力が備わっている。

世の中のトラブルの多くはカネ絡みということを考えると、その思いは一層強くなる。

 

思い返せば、僕もこのカネの魔力に取り憑かれていた。特に自営業をしているときは、表向きは人の役に立ちたいからと広言していたが、心の奥底ではいつも算盤勘定をしていたように思う。売り上げが伸びたときは内心ほくそ笑み、そうでないときはこの世を呪っていた。

 

自分の稼ぎに一喜一憂するのは当たり前といえば当たり前である。資本主義の世の中ではカネをどれだけ稼ぐかが価値基準になる。カネを多く稼げる者が偉くて、稼げない者は無能のレッテルを貼られる。僕は贅沢な生活を望んでいたというよりも、資本主義下での価値観、カネを稼げることで有能な人だという評価を周囲から得たかったのだ。あるいはカネを稼げる人間なって社会的地位を高めたかったのだともいえる。

 

僕は今、生活に最低限必要なカネしか稼いでいない。他者からの評価なんてどうでもよいと思っている。カネは天下の回り物だと考えている。この心境に達するまでにはかなりの年数を要し、様々な経験を経ることを必要とした。

僕の選択した生き方や僕が持つ価値観が絶対的に正しいとは思わない。真っ当に仕事をしてある程度の社会的地位を得た人たちから見れば、僕など負け犬である。僕の言葉などは負け犬の遠吠えにすぎない。しかし、僕の考え方や生き方が完全に間違っているとも思えない。

僕は死ぬまで今の生き方を変えることはないだろう。

たとえカネは稼げなくとも、ぶれずに生きていきたい。

自分にとっての居心地の良さを追求し、自由を追い求めて生きてゆく。