希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

アメリカ様万歳、のメンタリティは愚かなことという件

日本とアメリカが戦争をしていたのは70年ほど前のことである。そんなに遠い過去の話ではない。鬼畜米英と叫び、まるで親の仇のようにアメリカを憎んでいたことが噓のように今はアメリカべったりである。

社会システムや価値観もアメリカ的なものに侵食されている。アメリカで起こったことは遅れて日本でも起こる。

アメリカのマネをしていれば事足りると考えているエスタブリッシュメントの頭の悪さに辟易するばかりである。

 

確かにアメリカは世界をリードする大国である。政治的・軍事的・経済的に他国を凌駕する力を備えている。それに厄介なのが、「自由」「民主主義」「人権」の番人を自認していて、それらのイデオロギーを絶対的に正しいものとして他国に押し付けようとしていることである。

 

日本とアメリカは当然のことながら歴史も国民性も価値観等も異なっている。日本社会にアメリカの価値観やシステム等を導入することには無理がある。しかし、自分たちにとって都合のよいアメリカ流のシステムや考え方を取り入れたがる輩が日本には跋扈している。

 

かつて議論になり、また今になって再度議論の俎上にあがっているものに「ホワイトカラー・エグゼンプション」がある。よく「残業代ゼロ法案」と表現される労働規制緩和策である。

ホワイトカラーの成果を評価する要素として労働時間は馴染まないということである。一見もっともらしい物言いである。ホワイトカラーは知識労働がメインであり、その成果は何時間働いたかではなく、結果として質の高い成果物を生み出したかにあるということだ。

何のことはない。経営者は労働者を無限に働かせても、賃金は払いたくないという強欲そのものなのだ。ホワイトカラーといえども、会社は一定の時間労働者を拘束する。労働時間は賃金支払いの重要な構成要素であるし、労働契約上もその労働時間の対価として報酬を支払う性質を持つことは明白なことである。

仮にホワイトカラー・エグセンプションを認めるならば、会社は労働者の勤務時間にノータッチにしなければならないし、ある程度の報酬を保障しなければならない。だが、現実は労働時間管理をしながら、残業代は払わないという運用をする会社が多くなることは目に見えている。実際に裁量労働的な働き方になじむ仕事や職種はごく限られている。

真の意味でのグローバルスタンダードであるILO憲章を今一度見直し、その理念や内容に沿った労働のあり方を採り入れるべきである。

 

それと経営者の報酬が上昇し続け高額になっているのもいかがなものかと思う。創業経営者が高額な報酬を受けるのはまだ納得できる。いわゆるプロ経営者の待遇も理解できる。大多数のサラリーマンに毛が生えた程度のなんちゃって経営者が、アメリカの経営者の高額報酬を羨ましがって、己も都合良くそれをマネしようとする心根が卑しい。能力があり業績を上げた経営者が報酬を上げるのは肯定できる(ただしその好業績が経営者の力量によるものとは限らない)。ただ、経営者の地位にあるだけで、労働者の数十倍、数百倍の報酬を得ることが当然のことだという思考は傲慢であり、人として欠陥がある。

 

僕の興味のある分野に限って、アメリカ流の価値観等を受け入れることの愚かしさを述べてきた。

 

その他にもライフスタイルや公教育の自由化・規制緩和等のケースについても、アメリカ様万歳として、客観的・合理的な検証もなく受け入れることも愚かなことである。

 

アメリカの価値観や社会システムが絶対的に正しいわけではない。またすべての分野で進んでいるわけでもない。公的医療保険がないことや銃規制が緩いことなど、先進国とは考えられない遅れている部分も多くある。

 

アメリカ一辺倒のこの国のあり方を糾すときがきている、と僕は思う。