希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「自立」について考えてみる件

僕たちはある一定の年齢に達すると「自立」せよと強要される。あるいは自立していることが当たり前だと思われている。

 

「自立」とはどのような状態のことをいうのだろうか。

一般的には、働いて自分の生活費のすべてを自分で稼ぎ、独立して生計を営み、他者からの援助を一切受けていない状態とされている。

実家に住み、生活費を渡してはいるが、家事等を家族に頼っている場合は自立していないのだろうか。パラサイト・シングルは自立していないことになるのだろうか。

 

実は「自立」という定義自体が相対的であいまいなものであると考えられる。

また、自立していない人たちを責める「大人」たちは本当に自立しているのかも疑問である。

結婚費用を親に出してもらったり、住宅ローンの一部を親に出してもらったり、子どもを親(祖父母)に預けて働いていたりするケースが多いと思われる。このような人たちは本当に自立しているといえるのだろうか。この手の大人たちの多くは自分たちは自立していると思い込み、フリーターニートをバッシングする。あるいは生活保護受給者を目の敵にしてバッシングする。自分たちが恵まれた状況にあることに思いが至らず、恵まれていない状況にある人たちの苦境に対しての想像力が著しく欠けているのだ。

 

障害者や高齢者の「自立」とは、住み慣れた地域で自分のできる範囲で自力で生活し、経済的には年金で生活費を賄い、自力でできないことは介助者等のケアを受けながら生活をすることである。

障害者で就労が可能な人たちは、できうる範囲で仕事に就く。ただ、フルタイムで働くことを要しない。

このように障害者や高齢者の自立に関しては現在は上述の一定のコンセンサスが存在する。

 

一方、ニートや引きこもり、あるいは生活保護受給者(稼動年齢の人たち)に対する自立へのプレッシャーは強いものがある。この場合の「自立」は生活費のすべてを働いて稼ぐことを意味する。これらの人たちは働きたくても働けない状況に陥っている人が多い。決して怠けているわけではない。

昨今の劣悪な労働条件にある会社にこれらの人たちを送り込んでも、またこじらせてしまい、結果として自立を阻むことになりかねない。心身の状態をさらに悪化させることになるおそれもある。

ニートや引きこもり等の自立も高齢者や障害者等の自立に準じたものとして捉える必要があるように思う。自分たちのできうる範囲の中で就労し、公的なあるいは支援団体の支援を受けながら、段階的に自立へと向かうという長期的な視野が必要である。

 

僕たちは完全に自立して生きているわけではない。

大なり小なり他者の支援を受けたり、互いに助け合いながら生きている。

自立することが当たり前、自立することこそが尊いという価値観を強いられる社会は、自助努力を強制され、自己責任論が蔓延する生きづらい社会となる。自分ひとりの力では生きにくい人たちを社会から排除する社会にもなりかねない。

 

完全な「自立」という幻想を捨てて、社会的包摂がなされた「自立」を目指すべきだと、僕は思う。