希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

どうしようもないと思われる人を助ける必要があるのかという件

僕は度々このブログで、社会的弱者の生活保障や自立支援は必要だと主張してきた。また、安易に自助努力を強いたり、自己責任だと片付けるのは間違っているとも述べてきた。

僕がイメージしていたのは、真っ当に生きてきて何らかの理由、例えば病気や失業等によって生活が困窮してしまった人たちには救いの手を差し伸べるべきだというものだ。

 

ここで大きな問題が立ち塞がる。

「真っ当」に生きていないと思われる人、どうしようもない人間だと思われている人たちに救いの手を差し伸べるのは良いことなのかという問題である。例えば働く意欲が無い人、アルコールやギャンブルに溺れて身を持ち崩した人、DVをはじめとする暴力をすぐに振るう人たちに対して、隣人が救いの手を差し伸べるべきか、公的な制度を適用してまで生活を保障すべきかということだ。

そんな人たちに大切な税金を使うべきではないと考えるのも人情である。生活が破綻したのは明らかに「自己責任」であると捉えられても仕方が無い。僕も身近にそんな人たちがいたら、プライベートでは正直関わりたくない。

 

福祉的支援の立場からすると、生活破綻に至った理由を深く突き詰め、根本的な原因を明らかにして支援する。なぜアルコールやギャンブルや薬物に溺れたのか、なぜ暴力を振るうのか、なぜ働かないか等の根っこにある問題を追求するのだ。

しかし、この個別の支援はなかなか難しい。ひとりひとりの生活歴や価値観等も異なるし、支援者に心を開かないケースも多い。

生活を破綻させる行動に至る理由が分かり、ケアしてもその行動が改まらないこともある。福祉的支援にも限界がある。また、ちょっとしたきっかけで立ち直ることもある。僕は人が人を助けることができるとの考え方には同意できない。それは傲慢な考え方である。僕たちができることは、ほんの少しばかりの手助けができるだけだと思う。

 

さて、本題のどうしようもないと思われる人たちを助ける必要があるのか、という問いに僕はやはり助け舟を出す必要があると考えている。一見、酷い人間だと思われる人たちにも再起や立ち直る意志が存在すると思うからだ。完全に悪なる人間はいない。完全に善なる人間が存在しないように。

人は何らかのきっかけで、生活に破綻をきたす問題行動を取るようになる。すべての人たちがその問題行動を改めることはできないかもしれない。しかし、問題行動を正す可能性があるのならば、様々な支援を行う価値はあると思う。

 

ある人に対して、どうしようもない人間であるというレッテルを貼ることは危険なことかもしれない。どうしようもないとされる人たちと真っ当といわれる人たちとを隔てる壁は案外と薄いものである。